大阪と東京のお雑煮。
大阪は昆布ベースで白味噌仕立て、丸餅に大根、人参が入る。
一方、東京は醤油ベースの鰹だしのすまし汁仕立てで、角餅、三つ葉に、鶏肉が入る。
お雑煮は、そもそも精進料理。
精神料理は仏教の殺生戒にもとづいて、生き物を用いずに穀物や野菜を主体とする料理。だから大阪や京都のお雑煮は昆布ベースの白味噌仕立てで、雑煮大根、金時人参を入れる。丸餅は、「丸」は角を立てないため、野菜を輪切りにするのは「円(縁)」を切らないため、という上方の町人の思いが込められている。
お雑煮は中世の精進料理からの食文化の文脈のなかにある。
江戸時代の大坂は町人の町である。
お客さまとのコミュニケーション、おもてなし、人間関係、考え方が食文化に刻み込まれている。
ちなみに、2日のお雑煮は元旦のお雑煮から変わる。昆布と薄口醤油のすまし仕立てとなる。それは「飽きない(商い)ように」との思いで、お雑煮すら変えた。
司馬遼太郎氏が「菜の花の沖」で、こう書かれている。
「松前から帰ってくる北前船が、昆布を大量に上方に提供することによって、ひとびとがこの海藻を料理のだしにつかい、上方料理を前進させた。昆布以前と昆布以降とでは、味覚の歴史は大いにかわったかと思われる」
大阪の食文化は「昆布」がベースである。
高級だし昆布の利尻昆布は精進料理や京都の懐石料理に使われ、真昆布は献上昆布や神社仏閣のお供え物、神事、結納品、縁起物などの用途に使われ、大阪を中心に流通した。
蝦夷地から乾燥させた昆布を北前船で大坂にはこんだ。大坂についた頃に昆布は熟成し、うま味が向上する。その昆布と鰹節とを組合せただしが料理を豊かなものにしたとともに、とろろ昆布、おぼろ昆布、塩昆布など多様な昆布文化を上方につくりあげた。
不思議なことがある。上方で広がった昆布が、なぜ江戸で普及しなかったか。なぜ大坂は昆布で江戸は鰹節と、食文化が分かれたのか?
(昆布) 上質な昆布が大坂で独占され、江戸への流通量が少なかった
( 水 ) 硬水である関東の水では昆布だしが出にくかった
との説がある。一概にこれだけの理由とは思えないが、それくらい大坂は全国の昆布流通を支配していた。大川沿いの菅原町、天満宮、靭公園、堀江周辺に昆布問屋仲買商、本町から道頓堀に昆布加工店が並び、全国の昆布流通を担った。いまも昆布屋さんが大阪には多い。
江戸時代の昆布で付け加えたいことがある。
「昆布ロード」という言葉がある。蝦夷から大坂への昆布流通や長崎から清国への正式な輸出以外で昆布が主役となる密貿易が行われていた。
ここに薩摩藩と富山の売薬商人が登場する。
北前船が「薩摩−琉球王国−清国」ルートで昆布の密貿易(抜荷)していた。清国は甲状腺障害の治療のためヨードを求めていた。清国に対して、ダイナミックな航行プロジェクトが起動した。蝦夷の昆布を大坂町人、富山の売薬商人、薩摩、琉球とが連携して、昆布を清国に販売した。北前船を使い薩摩藩が琉球王国で黒砂糖を仕入れ、大坂・下関などで昆布と交換する。そしてその昆布を琉球王国で清国に売り、薬種・書画・骨董を交換して、それを長崎・北陸・大坂で売るという「昆布ロード」であった。薩摩藩は、この密貿易で藩財政を改善し、幕末に向けた資金となったといわれる。当然富山の売薬商人の商圏も広がる。
その昆布によって、様々なだしを使った上方料理がうまれた。
上方の食文化は深い。地域・地域によって、手にできる農作物、魚、食品加工品、都市の形成、都市の歴史、記憶、産業、役割、必然などのちがいによって、地域の食文化にちがいがうまれていく。
講義の最後になった。まとめよう。北前船にのった「天下の台所」にたどりついた昆布が上方をどう耕したのか?
① 昆布を使いこむ文化をうみだした(昆布が深く多様な料理をうんだ。北前船を通じた昆布を使いこんだ有名、無名の調理人の伝統が上方食文化の基盤を積層化した)
② だしの文化をうみだした(昆布に鰹節・煮干のうまみと薄口醤油を加え、食材とが最適なバランスをつくるという料理の豊かさをつくりあげた)
③ 各地の食材が集めた(国内外からの食材が「天下の台所」に集積)
④ 町人のおもてなし文化を具現化した(おかげさん、手をかける文化)
⑤ 美食都市(ガストロノミー)をつくりあげた(料理人・料理店・農業・漁業者・市場・学校・お客さまが密接につながり、“美食都市”をつくりあげた)
こうして上方は、「美食都市(ガストロノミー)」となった。
〔産経新聞「関西の力」を体感する「だし文化を学ぼう」講座③(最後)〕
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 7月1日掲載分改〕