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2023年10月04日 by 小西 久美子

EXPO’70が遺したもの



こんにちは。エネルギー・文化研究所の小西久美子です。

921日のコラムでは、熊走さんから情報誌CELの連載コラム「万博遺産」の紹介がありましたが、今回は都市計画的に1970(昭和45)に開催された日本万国博覧会EXPO’70(以下、万博)が遺したものについて考えてみたいと思います。


1.万博きっかけでできた都市基盤


 万博会場の千里丘陵は、大阪北部に位置し、大阪中心部からわずか 13?の距離ですが、当時は、水利の便の悪い起伏の多い丘陵地のため、ほとんど未開発のままでした。しかし、その立地の良さから、名神高速道路と大阪中央環状線、中国縦貫道路が接続するインターチェンジ建設が予定され交通の結節点となることが想定されていました。また、隣接地では1961年から日本初の大規模ニュータウン「千里ニュータウン」の建設が始まっており、将来的には大阪都心の人口と産業の受け皿となる構想も持たれていたようです。

 日本万国博覧会の開催が国際的に認定されたのが19659月。19703月開催までのわずか約4年半で、会場整備とあわせて、全国から集まる膨大な観客を円滑に輸送するための道路、鉄道などの整備が進められることになりました。交通施設以外にも、市街地、公園、下水道、河川改修等の生活環境施設整備等が「万国博関連事業」として推進されました。

 

 

当初、関係各省の出先機関や府県市で構成される「日本万国博覧会関連事業推進地方協議会」が、地元要望として政府に提出した関連事業費は23,500億円()を超える膨大なものでした。さすがにこれは財源問題等で政府決定には至りませんでしたが、万博開催上不可欠な事業に絞り込んで再要望した結果、最終的には、6,500億円超が万国博関連事業として政府決定されました。(19671969年の3か年予算)

 万国博関連事業として何よりも重要だったのは、会場への交通輸送網としての道路の建設・整備で、新御堂筋、大阪外環状線、大阪中央環状線、大阪内環状線、築港深江線(中央大通)など、現在の大阪の骨格をなす多くの道路が建設・整備されていきました。

 また、大量輸送機関として地下鉄、鉄道網の整備も積極的に進められました。御堂筋線、四ツ橋線、中央線の3路線しかなかった大阪の地下鉄ですが、1967年に谷町線が一部開業した後、万国博関連事業として、谷町線と中央線の延伸、堺筋線と千日前線の建設着手など大阪市営地下鉄の主要部分が建設されました。地下鉄と私鉄、各私鉄間の接続、相互乗り入れも進められ、広域での鉄道ネットワークが形成されました。

 万国博関連事業とは別に、京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)と大阪府、関西財界等が出資して「北大阪急行電鉄株式会社」が設立され、御堂筋線の終点・江坂駅から千里中央駅への延伸が実現しました。さらに、中国縦貫自動車道の一部を借りる形で、千里中央駅と万博中央駅間3.6kmの新線も建設され、万博開催中には梅田駅や新大阪駅との直通が走っていました。しかし、あくまでも暫定路線と言うことで、万博終了後には撤去され、中国縦貫自動車道の上り線となりました。当時の道路行政は建設省の管轄、鉄道行政は運輸省の管轄ですから、所轄を越えて新線が建設されたのは画期的なことと言えるかもしれません。

 それにしても、万博開催期間のためだけに営業路線を建設するとは…万博に掛ける並々ならぬ期待が感じられます。

いずれにしても、この時、千里ニュータウンが新大阪、大阪中心部と鉄道網で結ばれたことは、現在もなお、千里ニュータウンの大きな魅力の一つになっていることは間違いありません。




  

2.跡地利用と公園


 万博開催に向けた、諸々の整備と並行して、跡地利用をどうするかは当初から重要な課題でした。

 大阪府が19663月にまとめた跡地利用構想では、会場用地を①文教施設地区、②公園緑地地区、③官公庁地区 ④流通施設地区に区分して利用することになっていました。先述のとおり、隣接する千里ニュータウンも併せて、将来的には大阪都心の人口と産業の受け皿となる近郊都市を整備することが構想されていたのです。一方、吹田市は、「業務地区」「工業団地」「住居地区」「緑地」「その他の地区」に分けて利用する案、大阪市は、跡地を分割せず全域を公園とすることを主張しており、それぞれ異なる構想を持っていました。

 結果的には、「万国博覧会跡地利用懇談会」が設置され、跡地は統一した計画に基づいて一括利用することになり、「緑に包まれた文化公園」とすることが決まりました。丘陵地を造成してできた会場跡地を緑に包まれた公園として再生させるというのは、矛盾も感じますが、跡地にできた万博記念公園は、当時を知る人にとっては万博の記憶を刻むものとして、当時を知らない人にとっても魅力ある大規模公園として、50年以上経った今も多くの人に親しまれています。


      万博記念公園(イメージイラスト)


ちなみに、1990年に開催された「花と緑の博覧会(以下 花博)」跡地も、花博記念公園鶴見緑地となっていますが、この鶴見緑地は、市街地の無秩序な拡大防止のためにグリーンベルトを形成する壮大な構想のもと、服部緑地、久宝寺緑地、大泉緑地とともに大阪の4大緑地として、1941年に都市計画決定されたものになります。戦時下では防空緑地に指定され、高射砲陣地として使用されたりもしましたが、戦後、整備を再開し、1972年に一部供用開始されました。元々、都市計画決定されていた緑地を会場に花博が開催され、その後、花博施設の利活用も図りながら再整備が進められてきたというわけです。 


    

       花博記念公園鶴見緑地


3 万博が遺したもの


 万国博関連事業の中には、既に事業着手していたものも含まれますので、少なからず、万博に「乗っかった」感はありますが、万国博関連事業に認証されることで、短期間での整備が実現し、大阪都心部や大阪北部地域の都市基盤が充実したことは事実です。何より、広域での交通ネットワーク網の形成により、大阪圏全域の発展に寄与しました。

 当時、既に大阪では、急速な経済成長と産業構造の高度化により、人口、産業等が急激に都市に集中し、都市部の過密化、交通難、公害の発生、地価の高騰、郊外のスプロール化など都市問題が顕在化していました。そのため、万博の開催にあわせて、地下鉄、鉄道、主要道路、高速道路などの都市基盤整備を進め、河川改修や下水道整備などの環境整備を行うことで、都市構造の再編が進められたと言えます。

 2025年に大阪・夢洲地区で開催される「大阪・関西万博」でも、道路、鉄道、空港、港湾、河川等で多くの関連事業が計画されています。また、将来的には統合型リゾート(IR)を誘致し、会場跡地を含む臨海エリアを「国際観光拠点」「国際物流拠点」とすることが構想されています。

 高度経済成長期の都市においては、万博開催が都市基盤整備、交通ネットワーク整備のけん引役となりましたが、成熟時代・人口減少時代の現在において、大阪・関西万博はどの様なインパクトを遺してくれるのでしょうか。









 

 

 

 

 

 



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