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2023年12月07日 by 山納 洋

【シリーズ】街角をゆく Vol.6 守口(大阪府守口市)




こんにちは。エネルギー・文化研究所の山納洋(やまのう・ひろし)です。

僕は2014年から「Walkin'About」という、参加者の方々に自由にまちを歩いていただき、その後に見聞を共有するまちあるき企画を続けています。

その目的は「まちのリサーチ」です。そこがどういう街なのか、どんな歴史があり、今はどんな状態で、これからどうなりそうかを、まちを歩きながら、まちの人に話を聞きながら探っています。

この連載ではWalkin'Aboutを通じて見えてきた、関西のさまざまな地域のストーリーを紹介しつつ、地域の魅力を活かしたまちのデザインについて考えていきます。

 

今回ご紹介するのは、京阪守口市駅の周辺です。


守口は、かつては農地が大部分を占め、集落が点在していましたが、交通の要地でもありました。文禄3年(1594)には豊臣秀吉が淀川の改修を命じて文禄堤を建設、2年後に完成。淀川の氾濫を防ぐとともに、堤防の上は大阪と京都を結ぶ最短路である京街道となりました。守口宿は東海道五十七次の最終の宿場となり、旅籠や茶屋が建ち並びました。昭和8年(1933)に門真市・守口市に松下電器産業の工場が建設されて以降、企業城下町として発展、戦後の高度成長期には市街地化が進みました。

 

四国銀行守口支店

 

京阪守口駅のすぐ近くには、四国銀行の守口支店があります。人口15万人弱の衛星都市である守口市に、なぜ四国銀行があるのか?

守口市立図書館にあった「守口よもやま辞典」(守口青年会議所)に、その答えが書いてあります。「地域から銀行に対して設置の要請があったから」なのだと。

「四国と阪神経済圏とは昔から人的交流が盛んで、特に高知、徳島両県人は従来海路を利用し、上陸後大阪に定着する者が多く、中でも守口市を含む北河内地方にはこの傾向が強く、住宅関連事業等に従事し、活躍されております。」

守口市における四国出身者は、総人口の19%にも達しています。

 

そういう視点を持って守口を歩くと、四国的なものが時々目に入ってきます。クリーニング屋を見ていると「四国屋」「サヌキヤ」という名前のお店に出会います。

 

クリーニング店「四国屋」*現在は廃業


四国銀行守口支店の西側には「東洋生興」という不動産会社があります。同社の創業は昭和42年(1967)。代表は高知県東洋町の出身です。そして社名は“東洋で生まれ、業を興す”という代表の思いを体現しています。

京阪守口駅の北側を線路沿いに少し行くと、「敷島住宅」という、住宅の分譲・リフォーム・賃貸などを手がける会社があります。同社の会長も同じく東洋町の出身で、昭和37年(1962)に住宅の建て売りなどを手掛ける同社を立ち上げ、現在も守口に本社を構えています。

守口市における四国出身者3万5千人のうち、東洋町出身者は2千人以上を占めています。彼らの多くは宅建、設計、左官、司法書士など多様な分野で活躍し、「東洋町出身者で家が1軒建つ」と言われていたそうです。

守口や門真では、かつてのれんこん畑が住宅地に変わった、という言い方をよく聞くのですが、実はこの地域にれんこん栽培が広まったのは大正時代以降のことです。それまでは、市街地のほとんどは田んぼでした。



国土地理院地図 1/20000「大阪東北部」明治41年測図 明治44.9.30発行


このあたりは淀川の後背湿地にあたり、低地で水はけが悪く、水腐れを起こしてしまうなど、米作りは大変だったようです。そのため江戸時代には排水樋の設置を幕府に願い出るも、聞き入れられることはありませんでした。

そこで南寺方村の庄屋・喜左衛門は寛永11年(1634)に樋を築いて水害を一掃しますが、その翌年に幕府を無視したとして処刑されました。大久保庄の庄屋・小泉弥治衛門も慶安元年(1648)に幕府の許可なしに排水樋を作りましたが、その翌年に、弥治右衛門一家4人は処刑されています。村や村人のために我が身を投げ打つ庄屋さんが出てくるような土地柄だったのでしょう。

 

時代は下り、第二次世界大戦後にGHQ による農地改革が全国的に行われた時に、守口では農地の26パーセントが、地主から小作人の手に渡っています。このことは、守口市内の4分の1の農地が「先祖代々受け継いできた」土地ではなくなり、開発のモチベーションが働きやすくなった、ということを意味しています。


守口でれんこんの栽培が始まったのは明治時代のことですが、品質や収穫量が安定し、広まるのは大正時代以降のことです。そして農地改革の後、昭和25年から30年の間に、守口市のれんこん畑の面積は倍増しています。田んぼの多くがれんこん畑に転換されたのですが、おそらく「その方が儲けが見込めたから」なのでしょう。

そして昭和30年代から40年代の間に、れんこん畑の宅地化が一気に進みます。

 

守口市・門真市には松下電機や三洋電機の本社と工場があり、下請けの電機器具製造業も集積していました。そこで働く人たちの住宅が必要とされていたのですが、守口市や門真市では、ニュータウン建設の計画が進められるよりも早く、民間の事業者が文化住宅と呼ばれる木造賃貸住宅の建設と経営を手掛けるようになりました。その担い手の多くが、東洋町出身者だったのです。彼らは町から切り出した材木を使い、木造アパートを建て、借家経営にも乗り出したのでした。その後住宅建設が一巡した後には、建売住宅を建てたり、不動産経営を続けたり、戸建て住宅やマンションの建設・分譲へと展開した人たちが、現在も事業を続けておられるのです。



東洋町の伝統料理「こけら寿司」(画像提供:野根キッチン)

  

守口市は、東洋町と友好都市提携を結んでいて、子ども交流会などの交流事業が行われています。また、毎年11月に開催される守口市民まつりでは、東洋町の伝統料理「こけら寿司」が販売されています。こけら寿司は、柚子酢、鯖を合わせて作った酢飯の上に、人参、錦糸卵、椎茸、人参の葉などをカラフルに彩った押し寿司で、祝い事には必ず出されるご馳走だったそうです。


東洋町野根には「野根キッチン」という、「こけら寿司」を継承し、毎週土曜日に朝市で販売されている主婦の方々のグループがあります。代表の小林キヌエさんは野根で生まれ、お父様が守口で建売の仕事を始めたことから3歳の時に家族とともに上阪され、そのまま守口で長く暮らしておられたそうです。ご主人が三洋電機を定年退職されたのを機に野根に帰郷され、こけら寿司を作るようになったのだと。市民まつりでこけら寿司を販売されているのは、野根出身の方々が楽しみに待っておられるからなのだそうです。


このように、守口市と東洋町の間には深いつながりがあるのですが、時代が進むにつれて、このことを知っている人たちは少なくなってきています。このこけら寿司をきっかけにして、守口市と東洋町の逸話を多くの人たちが知るようになれば、と思います。







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