「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えています。第二次世界大戦後の中東諸国の動きについて、考えてみたいと思います。
1)ナショナリズムの芽生え
低コストで採掘できる石油が、中東で大量に発見されました。しかし、その権益のほとんどを欧米の巨大石油企業連合、すなわちセブンシスターズが確保し、富を独占します。
このように七人の魔女が暗躍していた1948年のことです。石油業界を揺るがす大事件が勃発します。
南米の大産油国となっていたベネズエラが、メジャーとの新しい収益配分の同意にこぎつけたのです。世界初のフィフティ・フィフティ(50対50)の契約を締結したという情報が世界に流れ、中東にも衝撃が走りました。
「我われは、メジャーに収奪されているだけではないのか?」
今まで、石油の権益はメジャーの取り分がほとんどを占めており、産油国はわずかしかもらえないというのが不文律となっていました。欧米の石油企業の技術と資金がなければ石油の開発など夢の話であるため、産油国はそれを甘んじて受け入れていたのです。
なのに、いきなり「対等の権益を得た」という情報です。「石油開発には巨額の費用がかかるため、それ以上の権益を提供することは認められない」と主張してきたメジャーの嘘がばれたのです。
自分たちの土地からでた石油からは正当な対価を受け取り、自分たちの国の発展のためにつかうべきではないか。中東産油国にも、ナショナリズムが芽生えはじめます。
第二次大戦後に猛烈な勢いで広がったナショナリズムの嵐は、またたく間に世界に広がっていきます。イランもその例外ではありませんでした。
戦争の終結とともに、イギリスはその植民地をつぎつぎと手放しはじめました。しかし、その影響力は依然として残っています。
イギリス政府が国有化したアングロ・イラニアン社(アングロ・ペルシャ社が名称を変更)がイランやクウェート、イラクなどにもつ石油埋蔵量は、ライバルであるロイヤルダッチ・シェルを遥かに凌駕していました。なかでも、イランはその埋蔵量と生産力において群を抜いています。しかも、イランはイギリスの独占地区です。
そのイランで、ツデー党(共産党)が声を高くして石油会社の国有化を叫びはじめたのです。のちに首相となるモハメッド・モサデグでした。国民は熱狂し、モサデグを支持します。
2)イランの目覚め
モサデグはこの当時、70歳という高齢に達しており、外見はお世辞にも立派とはいえず貧弱そのものの風貌でした。
仏ソルボンヌ大学へ留学しスイスのヌーシャテル大学で法学ドクターを取得しているため、博士とも呼ばれています。モサデグはイランに帰国すると国会議員となり、財務大臣にも就任しています。
こうした経歴とは裏腹に、群集に語りかける彼はまるっきり人が違っていました。大声で泣いたかと思えば、突然ヒステリックに叫びながら気を失うのです。彼はその秀でた扇動術で、政治的頂点に登りつつありました。
モサデグとイラン政府がイギリスに要求したのは、「アングロ・イラニアンは、利益を十分に支払うべき」という正当な内容でした。
するとアングロ・イラニアン社はすぐさま、収益配分を50パーセントに引きあげるという破格の条件を申し入れたのです。しかし、これは明らかに逆効果でした。
「なぜそれほど支払っても利益がでるのだ」
そのあまりにも大きな数字の変化は、今までイギリスが如何にイランから搾取していたかを誰の目にも明らかに示したのです。「16パーセント以上を支払うと、利益がでない」と言い張ってきた過去の大嘘が露見し、かえってイラン議会の怒りを招いてしまいます。
1951年4月、モサデグは議会で正式に石油国有化を提唱し、満場一致で可決されました。
発展途上国における石油会社の国有化。こうした試みは、じつは世界史において初めてではありませんでした。1937年にメキシコが完全国有化したことがあります。しかし、メジャーも悪い先例を残すわけにはいきません。そこで彼らは、もっともきつい報復にでました。メキシコ・オイルのボイコットです。これによってメキシコ経済が受けたダメージは計り知れないほど大きなものでした。
メキシコの事件以来、国有化という言葉は産油国にとってタブーとなっていたのです。モサデグの行動はどのようなインパクトがあるのか。世界中がこのドラマの展開を見守っていました。
しかし、モサデグ率いるイランは、とんでもない方向へ駆けはじめます。真の国家独立という崇高な理念のナショナリズムは、やがてその目的を見失い、「欧米の文化は一切を排除する」といった否定と憎しみの渦が国中を覆いはじめたのです。この動きは、中東諸国へ拡がります。
イランを火種にして、世界中が燃えあがる歴史に巻き込まれていくのです。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。