“流れ橋”をご存じでしょうか。自動車が普及するとともに、今や、橋といえば、コンクリートや鉄でできた硬くて大きい土木構造物であることが当たり前のように思っていますが、かつては集落の住民が共同作業でつくる簡易な橋が、川のあちこちに生活路として架けられていたものでした。人力で川に木の杭を打って、板を渡すだけですから、高さは2メートル程度、幅も1メートル程度。増水したら流れればよいし、流れたらまた板を拾い集めてきて架け直せばよいというわけです。
多くの地域で姿を消して久しい流れ橋が、岩手県陸前高田市を流れる気仙川には、現役の橋として残っていました。陸前高田では、流れ橋を“板橋”と呼んでいますが、自然に逆らうべからずという里人の思想が、みごとに知恵として継承されていたのです。
その一つ、陸前高田市横田町の本宿地区の板橋(流れ橋)「本宿橋」の再生現場に、縁あって立ち会うことができました。2011年3月11日、陸前高田のまちは大津波に襲われました。津波は気仙川を遡り、河口から9キロ上流までガレキを押し運び、河口から8キロほどにある本宿橋も、津波に呑み込まれてしまいました。しかし、先人の知恵の賜物で、ワイヤーで護岸につながれていた板は、上流に押し流されながらも再び集めることができたのです。
それから1年数ヶ月が過ぎ、田植えの作業も一段落し、梅雨時の晴天となった2012年6月2日(土)・3日(日)、集落の住民が道具を持ち寄って集まり、橋の復旧作業が行われました。住民たちは誰に指揮されるでもなく、それぞれに役割を果たしていきます。チェーンソーで丸太を切る人、丸太の橋杭を打つ人、橋桁や橋板を渡す人、橋板をワイヤーでつなぐ人…。集まった住民たちの動きは見事に調和し、徐々に橋がその姿を現していきます。橋板には大津波の跡も、数々の豪雨の跡も刻まれています。流されても、流されても、里人の手によって繰り返し生き返ってきた橋の存在感に、しばし言葉を失うほど胸を打たれました。集落の住民たちが、共同でお金を出し合い、自らの手で復旧し管理する、里人の里人による里人のための橋の再生です。
作業を川の土手からじっと見守っている人がいました。集落の長老の松田富美夫さんです。天候を読み、復旧作業の決行の時を知らせ、伝えられてきた知恵の数々を新しい世代に物語り、喜びの時にこそ戒めの言葉を発し、出来上がった橋に多少の欠点があるほうが、いつも気にかけ長持ちする秘訣だと説く、松田さんの姿のなんと素敵なこと。
流れることを是とし、再生の知恵を継承していく、そこに未来へのヒントがあるのではないかと問われる、忘れがたい出会いの旅となりました。
※写真は気仙川に架かる板橋(流れ橋)「本宿橋」の再生の様子(岩手県陸前高田市)