大阪万博は熱狂的で混沌。「めちゃくちゃ、なんやいろいろなものがあってパワーがあって、それがみんなを惹きつけた」─これが1970年の時代空気で、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」が産経新聞夕刊に連載されていた。
1970年という時代は、今から46年前、戦後25年経った。1955年からの高度経済成長にて日本は駆けのぼっていた。1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博は戦後復興する日本にとってのエポックメーキングだった。
太陽の塔。お祭り広場。日本館、三菱未来館、東芝IHI館、繊維館、富士グループ館、みどり館。マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツ、カップヌードル。缶コーヒー。日立館の長いエスカレーターに松下のタイムカプセル。月の石のアメリカ館にソ連館、カナダ館に恐竜のようなオーストラリア関連。日本庭園、ガスパビリオン…。テーマは「人類の進歩と調和」。太陽の塔はカラスと男鹿半島のなまはげが、お祭りの広場は小豆島の亀山八幡宮がモデル。何よりも圧倒的に熱情あふれ、独創的で日本的だった。
大阪大学 橋爪節也教授に、長年集めてこられた万博コレクションとともに、先生が中学1年生だった大阪万博経験と美術史的総合的視点で大阪万博とまちとしての意味合い、そして万博のその後を都市魅力研究室にて語っていただきつつ、幅広い年代層が集まった参加者がそれぞれの1970大阪万博経験を共有した。
「何よりもこの万博に関わった関係者が驚くほど若く、内容が文理がほどよくバランスがとれている。小松左京さんは、『これでやっと戦争か終わった』という感じという時代の空気感が大阪万博1970だった。しかし万博の裏に、ハンパクという反戦のための博覧会が大阪城公園で開かれていた。」という橋爪節也教授の言葉が印象的だった。
さらに弊研究所の三島研究員が万博関連資料を先生の研究用に寄贈した。失われていく記憶とモノを今のうちに残しておかないといけない。
明治維新から36年経った1903年に、大阪市天王寺で第5回内国勧業博覧会が開催され、435万人が来場され、大大阪につながる。それから63年後の1970年、吹田市千里でアジア初の日本万国博覧会、略して大阪万博、EXPO’70に6,242万人が来場し、大阪は高度経済成長を続けた。
今、大阪は新たな万博の誘致を目指すが、どういう時代空気、価値観、方向感で、何を目指すべきなんだろう。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明 ・特任研究員 弘本由香里)
〔CELフェイスブック 3月10日掲載分〕