昭和35(1960)年、大阪市内の江戸時代から続く老舗百貨店が来店されたお客さまへの挨拶に「いらっしゃいませ」という標準語を使いだした。これを機に大阪での挨拶が変わったという。
それまで船場の商いも、ビジネスも大阪地下鉄のアナウンスなどでも「おいでやす」「おおきに」という大阪言葉が普通に使われていた。
これは大阪に長く住み、働いていた人たちにとって、衝撃的な言葉革命だったろう。挨拶言葉が変わることが人と人との関係性を変え、町や職場の空気を変えた可能性があるのではないだろうか?
なぜ老舗百貨店は大阪言葉での挨拶を標準語に変えたのか?実は55年前の当時でも昔から使われ続けてきた大阪言葉を使っている人が減り、後輩たちに伝えられる人が減ったからだったという。
第7回「上町台地・今昔フォーラム」は「“しゅみじん”のまち・大阪レビュー 郷土玩具から広がる、「趣味人」ネットワークと近代・大阪の創造力」をテーマに、大阪ガス実験集合住宅NEXT21 2階ホールで開催。
橋爪節也大阪大学総合学術博物館教授をお招きして、大阪の郷土玩具の生玉人形を案内役に、かつて大阪にあったものづくりの源流を知り、大阪の産業文化と都市の生活文化を学び、今そして未来の大阪を考えた。
詳細はCELホームページにて
http://www.og-cel.jp/information/1245287_15932.html
大阪の趣味人のキーワードは、①稚気(あほかいな) ②童心 ③職業を離れた連帯感(大阪的) ④収集への情熱(自分独自の世界秩序の構築)
大大阪時代。大阪は第2次市域拡張で、大正14年(1925)に日本第一の巨大都市となり、世界第6位の都市となる。關一市長は、御堂筋や日本初となる公営地下鉄、大阪港整備など人口拡大に対応すべき新たな大阪都市の形づくりにとりくんだ。
江戸時代から明治・大正と日本最大の商業都市を生み出したのは大坂・大阪時代を生き抜いた町人による独創的で世界基準のビジネス感覚と、過去から脈々とつながってきた職人的ものづくり力と新たなもの、佳いものをスピーディーに編集する力であった。
東洋のマンチェスターといわれた産業都市となった大大阪時代の大阪に、江戸・明治からの「浪華の面影」が消えかけつつあることを憂いた人があらわれ、かつての浪華・大坂の過去の記憶を残す郷土研究誌が次々と発行される。「難波津」、「大阪叢書」、「郷土趣味」、「大阪人」、「上方」…と、極めて高品質な記録が残される。これらと併行して、玩具やパンフレットなどを蒐集する趣味人が生まれ、大阪南地の心斎橋を核に、趣味人ネットワークが形成され、日中戦争前まで活動が続けられる。
橋爪節也教授に講演いただいたあと、趣味人が活躍していた頃の記憶から、なにを学び、現代とこれからの時代にどう活かすかをフォーラム参加者と議論した。西宮を中心に大阪の趣味人研究をされている先生から大阪と西宮の趣味人の連帯状況の報告もいただいた。
フォーラム終了後、講師の橋爪節也教授と西宮の研究者の情報交換は、5時間にのぼった。これこそ趣味人ネットワークだ。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明、特任研究員 弘本由香里)
〔CELフェイスブック 2月16・26日掲載分〕