「相撲って、大阪でもあるんですね?」と東京の人から無邪気に言われ驚いた。タニマチという言葉が、大阪の谷町の医者や呉服屋が相撲の力士を支援したエピソードから相撲の後援者のことをタニマチというようになったことが忘れられている。
相撲は神事である。神明造の吊り屋根に水引幕。四隅に四色の房が飾られ、青・赤・白・黒の房、四季と青龍・朱雀・白虎・玄武の四神が土俵を守護している。
相撲には、日本美の様式がいたるところに込められている。力水、清めの塩を土俵にまく、土中の邪気を払う儀礼である四股などの所作は神事としての意味合いがある。円い土俵が酒・米・塩などで清められ、扇子を持った呼び出し、土俵上の力士の蹲踞、揉みて、柏手、塵浄水という土俵でのルーティンや勝負を決した後に対戦相手に礼をすること、入場・退場に土俵に一礼するという相撲様式は、日本美そのものだ。
相撲は、いつ、どのように生まれ作られたのか?格闘的なスタイルは世界中にあるが、相撲という日本的な文化の原形は古代に生まれる。米の豊作や豊漁への祈り・占いのための神事として相撲がマチやムラで行われた。そもそも四股としての所作は土のなかの邪気を払う神事としての意味合いがある。
日本の相撲のルーツと言われる野見宿禰と当麻蹴速による天覧相撲は古事記、日本書記に綴られている。力比べのレベルで果たしあいとしての総合格闘技であり当時の「すもう」ではなく、闘争を意味する「すもふ」。734年に今に繋がる相撲スタイルが生まれ、全国の相撲人を集め、宮中の庭で相撲を行なうという相撲節会が確立した。
平安時代に入り、公家の洗練された文化編集力で相撲は神事的な文化が盛り込まれて、相撲が国技と言われる資格を得ることとなる一方、土地相撲、草相撲と言われるよう全国中に広がる。
武家の鎌倉時代になり武闘的色彩を強め、身体鍛練のための相撲を奨励するともに、全国各地の寺社が荘園などの経営における収益源として勧進相撲、奉納相撲、祭礼相撲を展開するなど、職業としての相撲が確立する。
織田信長が相撲を推奨して安土城内で相撲大会をしていたことは有名で、戦国の各藩でも相撲が行われることが江戸時代の相撲隆盛につながる。
江戸時代に現代の興行としての相撲が確立していく。元禄5年(1692)に大坂南堀江で勧進相撲が興行されたのが大坂相撲の始まりで、大坂商人の豊かな経済力を背景に南堀江となんば、京都で組織的な興行が行われる。
18世紀に入り江戸の経済力の成長に伴い、他の上方文化と同様に相撲興行も江戸に広がる。そして、徳川家の支援も受け全国の藩の力士が集められ江戸相撲が隆盛を迎える。大坂相撲と江戸相撲は力士の交流があったが、相撲興行の中心は江戸相撲に移る。
明治維新後、文明開化政策から東京都の裸禁止令が出て相撲興行の危機に陥るが、伊藤博文の尽力で明治天皇による天覧相撲が実現したことで、東京相撲、大阪相撲が存続。東京に両国国技館、大阪新世界に大阪国技館が作られた。そのなか1927年に東京、大阪相撲協会が統合され、大日本相撲協会が生まれ全国規模に広がり、戦後の混乱を乗り越え、現在の形態になった。
大阪相撲があったことは忘れられつつあるが、日本相撲は日本の美の様式を高めている。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 10月16日・3月20日掲載分〕