二頭の巨龍が今にも飛びあがるよう躍動する。墨の濃淡によるバリエーションがつくりだす日本独自の世界。
1552年に兵火で灰燼に帰して再興された京都建仁寺の方丈を飾った「雲龍図」を海北友松(かいほうゆうしょう)が描いたのが慶長4(1599)年。方丈52面に花鳥図、竹林七賢図、山水図などの水墨障壁画を、狩野派でも、長谷川派でもない友松独自の世界観で描いたのが友松67歳の時だった。
カーネル・サンダースがケンタッキーフライドチキンを創業したのが65歳。レイ・クロックがマクドナルドを創業したのが52歳。アンパンマン人気が出始めたのがやなせたかし50代後半。東芝の前進である「田中製作所」を田中久重がつくったのが75歳。伊能忠敬が実測による日本地図を完成させたのが71歳。何かを始めるのに年齢は関係ない。
京都国立博物館で開催されている「海北友松」特別展覧会。武家として生まれた絵師の一生を絵を通じて見る。琵琶湖畔に育った武家の目線を感じた。
近江湖北の浅井家に仕えた家臣の五男として生まれながら武家から絵師となった。師事したといわれる狩野永徳死後の友松59歳に彗星のごとく画壇に現れる。決してそれは突然なことではないのだろう。
関ヶ原の合戦の前年に颯爽と画壇にあらわれるが、それまで年表に書きこまれていない期間に友松の友松としての意味があったのだろう。戦国時代から安土桃山大坂時代、そして江戸時代へという争乱期に、友松の絵は劇的に変わりつづける。狩野派から友松流へと「守・破・離」のステップを踏む。ベースの水墨画を学んだあと、狩野派に転じ、友松独自の絵にたどり着く。そこに日本的な方法論を友松に感じる。
「遅咲き」という月並みな言葉はあてはまらない。活躍期間は短いが1615年の大坂夏の陣の直後に83歳にて死去するまで、友松の画風は刻々と変わる。イノベーションが繰り返される。織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康と天下人が変わる時代を友松は水墨画で生き抜いた。同じ絵師かと思えるほど変化しつづける。求められる顧客ニーズに応えつづけたのかもしれない。まさにマーケティングそのものだ。
暗くした展示室の3面に龍の絵が浮きあがる。圧倒的迫力の海北友松の龍たちが私たちを見つめる。龍を描けば日本一といわれた友松は国内だけにとどまらなかった。朝鮮の高官が友松の龍を求め、友松の龍が海を渡った。すごい絵師がいた。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 4月18日掲載分改〕