「生徒の4割が外国人になりました」と、大阪の繁華街に立地する中学校の校長から伺った。
たとえば大阪のミナミを歩いていると、コロッセウムやモンサンミシェルに立った時に覚えた感覚になることがある──世界中から訪ねる人々とともに人種、言葉を超えて一体化した感覚がよみがえった。この世界的な名所で経験した感覚を、東京、大阪、京都でも感じはじめるようになった。ここは日本なのか?と感じるほど世界中の方々が歩いている場がある。
約1260年前の平城京・東大寺。五色の幡が春風にたなびき、唐樂、高麗樂、ベトナム樂が舞われるなか、廬舎那仏開眼法会が開かれた。開眼導師はインド出身の僧。聖武上皇など政府参列者に加え、唐、朝鮮、ベトナム、ペルシア、トルキスタンなどからの来賓が参列された。
飛鳥時代・白鳳時代に続き、唐文化にシルクロードを渡ってきた西方文化が融合し、国際色豊かな天平文化が花ひらいた。この文化を担った高度技術者における渡来人比率は5割、平安時代初期の貴族に占める割合は3割だったという。当時の近畿は現代以上にグローバルで世界レベルの人々が集まり、さまざまな領域で世界品質の日本的なものが創造されていたのだろう。この地で世界レベルの文化がなぜその時代に生まれ、どう育まれたのかという背景・戦略を掘りおこし、今生きている時代につないでいくことだ。
その752年の東大寺の「盧舎那仏開眼法会」に使用されたといわれる幡(はた)などを奈良国立博物館で開催された「正倉院展」で見た。東大寺を彩る全長15メートルもの幡、楽舞に用いられた西域風の男性を感じさせる布作面、唐中から伝来し楽舞につかわれた管楽器「竿(う)」「笙(しょう)」が今の私たちの前に存在感をもって並べられた。大仏法会があった奈良の時空間にタイムトリップする。
館内では中国からの観光客がくいいるように見ておられる。「今の中国には唐時代のものは書物としてしか残っていない。唐時代にあった実物はない。唐時代のものが実物として奈良にある」と話をした。1300年前の平城京時代の奈良の姿がリアルに現代に繋がる奈良。
2016年10〜11月に開催された「第68回正倉院展」の目玉は、シルクロードの東西交流を物語る「漆胡瓶(しっこへい)」だった。聖武天皇の愛用の水差しで、唐でつくられたペルシア風の水差し。平城京時代の9000件もの宝物のうち、海外から渡ってきたモノは全体の5%未満で、大半は日本でつくられたもの。そのモノには日本的なるものに、西アジア・東アジア・唐文化が融合されたグローバルな地域を超えた「記憶」と当時的な日本的な「方法論」が刻みこまれている。
大変興味深かった文書があった。天平11(739)年ごろに書かれた写経所の職員が待遇改善を要望している書物の下書きだった。大変おもしろく、読みふけった。
「①仕事量と人員配置を調整して欲しい ②仕事着を交換して欲しい
③月5日の休暇が欲しい ④食事を改善して欲しい
⑤3日に1度、薬分として酒を支給して欲しい ⑥食事に麦を出して欲しい」 など
この要望書を読んでいると1300年前の平城京の職場のリアルな息遣いが聴こえてきた。
まるで今と同じ職場の風景が目に浮かぶ。まさに1300年前と現代と繋がる。平城京時代と今とは変わらないことがある。1300年が経ち科学技術的なものは格段と進んだが、人々の物事の感じ方、考え方、精神的なことは1300年前の平城京にいた人と現代の私たちと大きく変わらない。過去、歴史から学ぶことが多い。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 11月2日掲載分改〕