大坂は大坂城に向かってできたまちである。
東にある大坂城に向かって、大坂がつくられた。まち、道路、堀・水路などの都市インフラは東西軸につくられた。
400年前、大坂に「内裏」を持っていこうと豊臣秀吉は考えた。かつて難波宮があった大坂の地政学的位置づけを再発見した秀吉は15年間かけて「大坂」をつくる。
織田信長の後継者となった秀吉は本願寺跡地に大坂城建設に着手する。本丸、そして二の丸をつくり、天下統一がなったあとに、さらに拡張して惣構えをつくる。さらに二の丸と惣構えの空間に城の機能を増強しつづけた。
秀吉はまだ大きく流動する時代を見据え、畿内の京、伏見、堺との関係を考えて、大坂の都市ビジョンを何度もデザインしなおす。大坂を政治都市とするのか、経済都市とするのか、商業都市とするのかと。
秀吉は大坂城づくりと併行して、東横堀川の東側の城側と、城から四天王寺を結ぶ谷町筋の、上町台地にあたる場を市街地と城の内町としてまちづくり。大川をはさんだ北側、今の天満のあたりに「内裏」をもってこようとする。大坂に遷都しようとするがかなわず、つづいて本願寺を中心とした寺内町にしようとするもそれもかなわず、天満地区を城下町に組み込んだ。それぐらいまだ時代は変化していた。
船場の開発が行われるのは秀吉最晩年。東横堀川が南北にとおるあたり、天満堀川が南北をとおる。つづく秀頼時代にさらに大坂は大きくなる。西へと、海側へと、大坂のまちを広げていく。西天満、そして船場が拡大していく。そして徳川家康と豊臣秀頼による大坂の合戦が歴史的必然性にて起こり、大坂は戦国最後で最大の戦場となる。大坂の合戦後、燃えてしまった大坂は徳川家により復興され、淀川水系を活かした堀・水路ネットワークによる天下の台所となる。
江戸時代から明治、そして大正と「東西軸」で、まちは動いてきた。
工業が興り、人口が増え、大阪三郷から大阪市域は拡大していった。都市規模の拡大と梅田と上本町・難波などを軸に郊外に伸びる鉄道ネットワークが形成されたことによって、大阪市内の南北にヒト、モノ、コトをつなぐ必要がおこった。そして東西軸の交通インフラに南北軸が加わる。
こうして今から80年前に御堂筋ができた。御堂筋はまちとともに生まれた、そしてまちとともに育ち、また新たな時代を生きていく。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 5月12日掲載分〕