「これまでの200年の感謝の気持ちです」
と、その会社の社員たちは自社に届けられた救援物資を避難所に配布していた。その会社の工場も事務所も流されたにもかかわらず、家を流されて避難されている人たちにその会社の社員たちはボランティア活動をおこなっていた。「ありがとう。さすが、八木澤商店だ」といわれたと、救援物資を配布した社員たちは、そう会長に報告した。
311の巨大な津波は創業200年の醤油・味噌醸造工場をコンクリートの外壁だけを残して流した。桶も製造設備も、なによりも醤油の生命である「もろみ」もすべてがなくなった。
「陸前高田も、会社も無くなった」
メーカーとしての生産機能にお客さまを失った老舗企業のトップや社員たちは絶望感に苛まれただろう。八木澤商店の復活劇はテレビや新聞・雑誌は有名であるので、ご覧になった人も多いだろう。
しかしテレビでも報道された奇跡の復活劇の裏には想像できないくらいのストラグルがあったという。陸前高田の山から見える嵩上げ工事がつづく市街地を見ると、信じられない復活だと感じる。昨年発刊された「奇跡の醤(ひしお)−陸前高田の老舗醤油蔵八木澤商店再生の物語(竹内早希子氏著)」に記された311当時のこと、311直後の姿、復活に向けた努力は筆舌に尽くし難い。体験したものでしか理解できないことがある。
底抜けに明るく話していただくが、時々涙を浮かべられるように見える瞬間がある。この人は、この人たちは、どうしてこんなに勁(つよ)いのだろうと感じながら話をお聴きしていた。
私たちのようなものが、何百、何千人と八木澤商店を訪れたにもかかわらず、8代目の会長は311のこと、311からのことを丁寧に語ってくださる。地震後、9代目にあたる息子さんに社長の座を譲り、八木澤商店の復活をサポートする立場になるとともに、200年以上も商いをさせていただいた、すべてが流された陸前高田の今泉地区を復活すべく精力的に行動されている。
「地場産業が復活しないと、地域の復興はない」
311から2年半後に隣りの一関市の小学校跡地に建てた工場で醤油製造を再生することができた。
さらに陸前高田市に店舗兼本社を建てられた。その外壁は陸前高田伝統の「白壁のなまこ壁」、京都の会社が八木澤商店の経営思想に共感し,本物の「なまこ壁」を外壁につくった。
復活を目指す人たちの“熱意”が周りを巻き込む。
その人たちが発する“熱”が周りをあたため、“発熱”が伝播していく。今年4月、岩手大学と立教大学とが陸前高田グローバルキャンパスを開設した。若い人の声が響くまちに向けた拠点づくりであるが、八木澤商店の8代目河野和義会長が考え、行動したことでつながったことのようだ。地元の大学と東京の大学のコラボも珍しい。国内のみならず海外から大学生を呼びこみ、「交流人口」を増やし、陸前高田の復興につながれば素晴らしい。
面会の予定時間を大幅に超えても語りつづける底抜けに明るい会長が最後に見せたいものがあると、見せていただいたのが八木澤商店の「経営理念」だった。かつて事務所に掲げられていた経営理念は巨大津波に流され、従業員が瓦礫のなかから墨の文字が水に流れたところのある「経営理念」を見つけだしてくれたのだという。「これは私の宝物です」と指さす会長は、また涙を浮かべられたように見えた。
八木澤商店で買わせていただいた「奇跡の醤(ひしお)」は、ほんのりと甘かった。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 5月19日掲載分〕