安波山から、気仙沼の市街地、気仙沼湾がよく見える。
先程まで訪ね歩いていた陸前高田と一変したまちの風景があらわれた。雨が降るなか、鹿折まちづくり協議会の吉田千春さんに、気仙沼のことをご説明いただいた。311から6年が経った気仙沼に、人々が躍動しつつあるまちの空気を感じた。
気仙沼湾の南側に位置する杉の下地区には高さ13mの巨大津波が襲った。明治の大津波の教訓よりも高い場所に設置した避難所にも襲いかかり、多くの方が犠牲となられた。
「津波火災」という言葉を知った。311に気仙沼湾のオイルタンクが倒され、漁船燃料の重油が湾に流れ込んだことで火災がおこり、さらに風に流され火が飛び移り、まちが焼けた。
被害は圧倒的な数字だった。住宅被災、被災世帯、被災事務所、被災従業員、被災漁船は8割を超えたという。
気仙沼市はその被害を乗り越え、基幹産業である水産業が復活した。大震災があったにもかかわらず、日本一を死守した。生鮮カツオの水揚げは20年連続日本一を続けた。
三陸沖漁場は世界三大漁場のひとつである。しかし漁場のよさだけではない。気仙沼がこれまでつちかってきた優秀な漁船乗組員の高度技術と気仙沼市の漁船サービス技術が、カツオだけでなく、サメ、サンマ、メカジキなどを水揚げするビジネスシステムを築きあげた。さらにそのあとがすごい。
「まるでサーキットのピットのようなんです」と、吉田さんが説明いただいた気仙沼の水産業、漁業のビジネスフローに圧倒された。漁船が気仙沼港に入港すると、様々な産業が一斉に動きだす。さながらサーキットのピットのようだ。
「魚市場 → 買い受け人 → 箱屋 → 氷屋 → 運送屋 →問屋 → 仕入れ屋 → タクシー → お風呂屋 → 洋服屋 → 床屋 → 飲み屋 → パチンコなど → 造船所 → 機械屋 → 部品屋 → 冷蔵庫・電気・塗装会社 → 燃料 → エサ → 仕込み屋」
(「鹿折まちづくり協議会」資料より)
なるほど、と思った。漁船が気仙沼港という“ピット”に入ったあと、気仙沼全体がスピーディに機能的に動きだす姿が目に浮かぶ。加えて吉田さんの口から「健康診断」という言葉がよくでてくる。全国から漁船が定期点検のために気仙沼港に入ると、ただちに漁船ならびに操業にかかわる定期点検・設備メンテナンス・補充がおこなわれる。漁船の“母港”である。気仙沼で造船業・漁船メンテナンス産業が水産加工業とあわせて形成され、全国でもユニークな水産ビジネスが連関する水産都市をつくりあげた。
大漁旗(フライ旗)にも、それはあらわれる。漁船が新たに造船され、船おろしの時にマストの中央に日の丸、ダシ(家印)の旗、船名旗が順々に立てられ、取り舵(左舷)には造船所、無線機、漁業組合、魚問屋、面舵(右舷)に鉄工場、電気屋などの旗が立てられる。漁船にかかわる産業が広範囲で構成され、大漁旗がいっぱい漁船に立てられる。
漁船が基点となった水産・漁船関連産業の連結がオンリーワンの「水産都市」気仙沼を再生させ、「311から」スピーディかつダイナミックに復活させつつある。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 5月20日掲載分〕