「茅の輪くぐり」をした。
夏越しの大祓。アシなどの水草を束ねた輪をくぐり、知らず知らずのうちに罪や穢れを、草の持つ浄化と魔除けの力で祓い清める。大阪ガスビルの隣の御霊神社には早朝から出勤途中の人や地元の人たちが境内の茅の輪をくぐる姿を見る。
産経新聞社主催の「関西の力を体感する」で講演させていただいた。大阪にとっての出汁とは何か?その出汁の原料のひとつである「昆布」が大坂、上方をどう変えたのか、「昆布」はなにをもたらしたのか、を話した。
「天下の貨(たから)七分は浪華にあり、浪華の貨七分は船中にあり」(広瀬旭窓)
という有名な言葉がある。
江戸時代の富の7割は大坂にあり、大坂の富の7割、つまり日本の富の半分が船上交易であったということ。
室町時代の「大坂本願寺」を見て、1561年にイエズス会の宣教師が
「日本の富の大部分はこの坊主(十一世顕如)の所有なり」
との手紙を書いた。それくらい大坂は繁栄した。1496年に蓮如が京都と瀬戸内海をつなぐ淀川水系に位置し、上町台地のかつて難波津、中世の渡辺津の南に坊舎を建立し、1532年に本願寺教団の本山が大坂に移転し、2万人が住む寺内町に成長した。それはなぜか?
織田信長が大坂本願寺と11年間も戦った。なぜそこまで大坂にこだわったのか?
1581年豊臣秀吉が大坂城の築城を開始し、本丸が完成した。
天下人として大坂から全国に「惣無事令」を発令するとともに、堺、平野郷の町人を大坂城下に集めた。さらに1615年の夏の陣で焦土となるも徳川家は大坂城下を復興した。今から400年前の大坂の風景。12本の堀川と200ほどの橋が町人中心によってつくられた。130あまりの蔵屋敷が土佐堀川、堂島川筋に並んだ。堂島の米市、天満の青物市、雑喉場の魚市に日本中から物品が集められた。まさに海と川と堀でつくられた「水都」がつくられた。
400年前の日本には三都があった。江戸100万人、京都40万人、大坂40万人。そのなか大坂が天下の台所と呼ばれたのはなぜか?
① 大坂は「畿内」という厚い産業基盤(農業・手工業)に位置し、畿内のそれぞれの都市・地域が密接に道・水路で相互補完的にネットワークされていた
② 西回り航路・北前船、東回り航路などがつくられて、安価で遠距離、大量輸送が可能な海上航路・物流革命がおこったことで日本がつながり、大坂がその全国物流の中心となれた
③ 大坂市中を北組、南組、天満組に分け600町の町人たちが自治組織を運営し、独自の経済、学問、文化を発展させていった。そのなかから、「原料を仕入して、加工して、高付加価値商品にして、全国に流通・販売する」というビジネスシステムがうみだされた
④ とりわけ大坂には江戸に先がけ、国内外の流通を担なう高度なビジネスセンスとスキルを有する業種ごとの「問屋」が生まれた
⑤ これらを通じて、日本のみならず中国や西欧からの物産や各地域の情報を積極的に集め、掌握・分析することで、「価格決定機能」を握り、物資流通を支配できた
⑥ なによりも戦略的人材である商人が大坂に集まり、学びあい、切磋琢磨して、レベルアップできた
しかしなんといっても「天下の台所」をつくりあげたのは淀川・大和川の存在と、淀川河口に新たに大坂の港(四貫島・九条島/安治川口・木津川口)と、大坂城下に堀川を整備し、「水の都大坂」における動脈・静脈をつくりあげたことが大きかった。
その天下の台所と水路をつかって、大坂になにがもたらされたのか?〔②につづく〕
〔産経新聞「関西の力」を体感する「だし文化を学ぼう」講座①〕
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 6月30日掲載分改〕