「桜鯛、三月下旬より四月上旬を魚島時といふて、鯛の美味格別なるゆゑ、家毎にこれを賞美す。或人の句に、花うりがほめてゆくなり桜鯛」 (浪花十二月画譜)
卯之花月「魚島どき」。産卵のため、鯛が瀬戸内海の島々に群れをなして集まる。船場に桜鯛を贈答しあう風習があった。
大坂の食文化を生んだのは「市場」。
雑喉場には近海、瀬戸内や四国、九州から魚が集まる。青物市には近郊農村、畿内や西国から青果物が集まる。天秤棒の野菜・魚・豆腐を売る「行商」、大八車で「出前」「仕出し」が町家にはこばれる。
大坂は「食い倒れ」の都市といわれた。
「天下の台所」ともいわれるように、諸国から海の幸や山の幸など旬のものが安く集まり、塩、醤油、酒など良質な調味料が近郊から調達でき、優秀な料理人たちが各地から集まり、切磋琢磨して大坂の料理が進歩した。
商いのまち大坂で町人のおもてなしが高度に進んだ。
船場商人のおもてなしは来客の「お茶」にあらわれる。お茶にお菓子までついてくる。お客さまを訪ねるときに、お土産を持っていく。お客さまのことを考えに考え抜いたお土産を持参する。それは今もつづく。
大坂商人の接待はお客さまを徹底的に想い、おこなわれる。そのお客さま接待の「ご馳走」を担う「仕出し屋」がうまれ、のちに「料亭」となった。だから大坂の食文化が高度に深くなった。
しかし、大坂商人の本質は「始末」。
決して贅沢をしない。日常は「始末」。朝と夕はお茶漬け、もしくは粥とお漬物。
昼は「一汁一菜」。お番菜とご飯。お番菜はおつゆと煮物を兼ね、昆布と鰹節、煮干しでだしをとり、野菜を炊き、「船場汁」「船場煮」などを食べた。食材を使いつくす。だから冒頭の「魚島どき」を船場の人たちは心待ちし、楽しむ。これは一見贅沢に見えるが、そうではない。鯛は使いつくせるから、決して損ではない。これも「始末」。
これら食をささえたのは、かつては琵琶湖であった。
平安時代より北国の産物が敦賀に集められ、陸路で塩津や海津や今津にはこぶ。それを「丸子船」で琵琶湖を湖送し大津へ、また陸路で京・大坂にはこばれた。
また若狭小浜からも鯖街道にて魚介類を京・大坂に陸送された。このように古代から畿内の都市への物資ルートであった。その琵琶湖ルートに、西廻り航路という別のルートがうまれた。
「出船千艘 入船千艘」
といわれるほど、大坂を船が行き来していた。
江戸と大坂を行き来する菱垣廻船や、樽廻船は安治川口に、西廻り航路の北前船は木津川口に着き、川舟(上荷船、茶船)に積み替えられ、堀川を通って大坂三郷にはこばれた。
とりわけ北前船の西廻り航路は蝦夷地、日本海沿岸と大坂を結びつけ、琵琶湖ルートよりも輸送コストをさげ、輸送品質を格段に高めた。その北前船は蝦夷地と大坂をダイレクトにつないだのではなく、日本海、瀬戸内海の各都市、地域の生産状況とニーズをつかんで各地域に寄港し、「必要なもの安く仕入れ、必要なところで高く売る」という買い積みによって、一航路1000両(現在5000〜1億円)の利益をあげた。
「北前船」は、大坂になにをはこんだのか?
全国の物産、原料を西周り航路を使い北前船が大坂に運び、大坂や京都、畿内でそれに手を加え、付加価値を創造して、その商品を全国に流通した。縦横に張りめぐらせた海路ネットワークにて上方と全国各地の都市とを繋ぎ、WIN−WINの関係を作りあげ、日本経済・産業を高度化した。
菜種が大坂に入り、菜種油をつくり全国に出ていく。北からの?粕や干鰯などの魚肥は、上方近郊の農業生産性を高める。昆布は大坂にもちこまれ、大川沿いの菅原町、天満宮、靭公園、堀江周辺に昆布問屋仲買商、本町から道頓堀にかけて昆布加工店が並び、全国の昆布流通を担うとともに、北から来た昆布が上方の食文化を豊かにした。
北前船がはこんできた昆布は、上方の文化をどう変えていったのか?〔③につづく〕
〔産経新聞「関西の力」を体感する「だし文化を学ぼう」講座②〕
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 7月6日掲載分改〕