津という言葉がある。
津とは海岸、河口、川の渡し場などの船が停泊するところ。港(水門(みなと)=水の出入り口)をひかえ、人が集まるところ。全国に「津」という地名は多いが、古代での三津は「薩摩坊津、筑前博多津、伊勢国安濃津(現在の「津」)」、江戸時代は「京都、大坂、江戸」が三津とよばれた。
ある大学の「現代産業論」で、大阪の産業のことを講義させていただいた。
近畿を本拠とする企業として、現代の大阪の産業を考えるうえで、今の大阪の産業がどのようにして生まれたのか、なぜそうなったのか、なにがこの地の産業を強くしたのかを考えるため、時代をさかのぼってみた。
海と川と湖にはさまれた場に、“津”ができた。
その場は浪が速いから、「なみはや、浪速、難波」、魚(ナ)が捕れる庭(ニワ)だから、「ナニワ(なにわ)」と呼ばれた。“難波津”に市がたち、人々が集まり、交易がおこなわれ、町が形成されていった。
大和に政権が樹立された。
大和は日本の中心となり、陸と海のシルクロードの終着地となる。現在大和は内陸部に位置するが、当時は瀬戸内海から難波、そこから湖、川を通じて都に通じていた。縦横無尽に水路ネットワークがはりめぐらされ、舟が行き来していた。難波は大和政権の「外交・物流拠点」の役割をにない、国内外の物資が集積し、ガラスなど装飾品の手工業がうまれた。JR環状線の駅名に残る「玉造」というまちには勾玉などのガラス製造工場があった。
難波津と呼ばれた古代の上町台地には、すでに原料加工製造工場が林立していた。大阪の産業が萌芽した。
難波津は変貌していく。
平安・鎌倉時代の渡辺津、室町時代の大坂本願寺、豊臣秀吉の大坂城、江戸時代の天下の台所、明治・大正・昭和時代の東洋のマンチェスター、大大阪、戦後復興、高度経済成長、大阪万博と、幾度もイノベーションを繰り返して成長しつづける。それぞれの時代で求められるモノ、コト、情報は変わったが、難波津時代の“地力”を活かした大阪の「本質」は変わっていない。
本質とは、「ネットワークとトランスファー文化」。
国内および海外、シルクロードの終着点として、モノ、コト、ヒト、情報の流れの結節点としての“津”という場が発見され、水路と陸路ネットワークがひらかれ、“津”に様々な人々が集まり、交わり、情報が重なりあい、吸収しあい、変換しあい、編集され、都市に新たな価値を創造した。
それは難波津だけではない。
むしろ上方、畿内そのものの本質である。畿内の「津」「湊」「港」という地名に、その本質が残されている。
北からのモノ、コトを敦賀にて受け入れ、陸路を通り琵琶湖の塩津、今津に、さらに湖路で大津に、陸路・水路で京都へ。また東西からのモノ、コト、ヒトを兵庫津で西宮津で、難波津で受け入れ、川を通じて畿内を流通した。
新たなモノ、コト、ヒトが外から入ってきて、受け入れ、新たな価値を生み出した。トランスファー文化がこの地の本質であった。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 7月19日掲載分〕