それは、とても自然だった。
その地下鉄の駅にはエスカレーターもエレベーターもなかった。車椅子の人が階段の前に行くと、強靭な若者3人が集まり、車椅子の人を持ちあげ、はこんだ。思い荷物を持った高齢者が近づいたら、近くにいた若者がさっと手をさしのべてはこんだ。それはロンドンの地下鉄駅での風景。それはとても当たり前のように、自然に進められた。と、話してくれたのが義足のランナー山本篤さん。山本さんがロンドンパラリンピックで見た風景。
ミライロの岸田ひろ実さんも同じ風景を見ておられたようだ。日本の駅で、道路で、オフィスで、お店で、さらに海外で。110cmの目線で風景を捉える。
「バリアバリュー」の視点から、新しい日本および世界をデザインしようとする岸田さんたちミライロさんと「都市におけるバリアフリー」について話し合った。
「ユニバーサルデザイン」という言葉は、1985年に米国ノースカロライナ州立大学デザイン学部から生まれた。そのコンセプトは「多くの人が利用可能であるようなデザインにする」ことであるが、「デザイン」という言葉がわかりにくい。
デザインには、具体的なカタチを作る(設計・意匠)という意味がある。
問題を解決するため、目標を達成するためになにをするかを考えること、計画することという意味もある。
別のいいかたをすると、デザインには目に見える「物質的デザイン」と、目に見えない「精神的デザイン」とがある。この精神的デザインには「意味」が込められている。この意味こそ、「おもてなしの心」「弱者の目線」である。「ユニバーサルデザイン」の本来の意味である。
ユニバーサルデザインが生まれて30年。やや古くなりつつあったと思われた言葉を現代的に再起動させているのが「ミライロ」だ。
「行きたいお店に行っていた私が、行けるお店をさがすようになった」
突然車椅子の生活となったミライロの岸田さんの言葉だ。110cmの目線高さから見える風景、車椅子ではない生活経験から車椅子になったからこそ、気づく風景がある。その気づきがものを、まちを変える。
「わたしの中学校の教室では、二十数ヶ語の言葉が使われています」
ある中学校の校長からお聴きした。この学校はインターナショナルスクールではない。普通の大阪市内の公立学校である。驚いた。二十数ヶ語は出身国数でいえば、100の国を超えるだろう。インバウンドだけではない。すでに、その中学校区は100以上の国の方々が住むまちになっている。これからどうしたらいいのかではなく、もうすでにおこっていることなのだ。
「多様性」という言葉が氾濫している。
しかし多様性という言葉の氾濫に違和感がある。かつてそうだったのに、そのことを忘れてしまっている。かつて日本はシルクロード時代はグローバルに交流がおこなわれ、飛鳥・奈良・平安時代での朝廷貴族の外来人比率は4〜6割。室町・安土桃山大坂時代は朱印船・自由交易で海外との交流は圧倒的だった。それぞれの時代時代、新たなこと、異なったこと、すぐれたことを積極的に受け入れ、新たなものを創造しつづけていた。
その時代に「多様性」とか「ユニバーサルデザイン」という言葉はなかった。しかし違いなり弱さなりを認め、受け入れ、助け助けあい、高め高めあうことが普通だった。それはあたり前の風景だった。ではどうしたらいいのか。
〔後半につづく〕
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 7月20日掲載分〕