「だれも今の彼の姿は想像できなかっただろう」
2000年の秋、6名のモンゴルの少年たちが来日し、実業団相撲の名門である大阪の物流会社の相撲部で稽古をしていた。1人、2人、3人と相撲部屋にスカウトされていくが、華奢な60キロの15歳の少年には2ヶ月経っても声がかからない。
「亡き父は、モンゴル行きの飛行機のチケットを用意していました」
と、その物流会社「摂津倉庫」浅野社長。15歳の少年にモンゴルへの帰国を促したが、帰りたくない、と。一所懸命、摂津倉庫の相撲部員のなかでコツコツと稽古をして、スカウトされるのを待つ。
「本当は、お父さんがモンゴルの英雄で、オリンピックのレスリング銀メダリストであるといえば、この子には“才能がある”と先行投資をしてスカウトされただろうが、あの子はそれをあえて言わなかった」
少年は親の七光りではなく、自分を評価して欲しいと稽古しつづける。そんなモンゴルから来た15歳の60キロの少年のことを故浅野会長が慮り、知り合いの親方に相談し、相撲部屋が少年を受け入れてくれ、摂津倉庫から巣立った。
彼は「白鵬」となり、数々の記録をうちたて、この名古屋場所で歴代「通算勝利数」1位という新たな「伝説」をつくった。記録のすごさだけでなく、横綱土俵入りも土俵の「立ち居振舞い」も惚れ惚れするほど美しい。
相撲もたんに強いだけでなく、どんな相手の相撲も受け入れ、しなやかに柔軟に対処するのが横綱白鵬の真骨頂。
「15歳の彼を知っている私には、彼は天才とは見えない。2ヶ月もスカウトされずモンゴルに帰れないという一心から、ひたすら努力を重ねたプロセスにこそ、彼の今がある」と浅野社長が見ている。
白鵬関の話を聴いているうちに、ある野球チームの試合前の練習風景を思い出した。限られた練習時間のなか、球場の外野で2人ずつキャッチボールを時間をかけて丁寧におこなっていた。「基本」を徹底していた。そして練習の始まりと終りに「礼」をして走る。見ていて、とても気持ちよかった。
ある問題があり対外試合に出ることができなくなり、その復帰戦のことだった。再建を担ったそのチームの監督とマネジャーがおこなったのが「基本の徹底」だった。「私たちが当たり前のことが当たり前でなくなっていた。まずおこなったのが、チーム全員が当たり前のことを当たり前にできるようにすることだった」
1年が経ち、そのチームはあざやかに復活した。
この1年、怪我での休場、手術、そして稽古が十分にできなかった時間が、横綱白鵬をさらに大きくした。
「『あの15歳の男の子が…』と、亡くなった親父も喜んでいると思います。本当に横綱は頑張り屋さんです」と摂津倉庫浅野社長の言葉が心に響いた。テレビで見る横綱とは全くちがう姿が浮かんだ。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 7月24日掲載分〕