中学生風の男子たち15名が淀川に向かっていた。早よ行かないと、花火を見る席がなくなる!と、自転車集団が車道を塞ぐように隊列を組んで突っ走っていた。
と、そのとき、ひとりがジュースの缶を車道に捨てた。コロンコロンと缶が車道に落ちた。前から車が走ってきて、急ブレーキで止まった。危ないところだった。ドライバーは、缶を車道に捨てたらあかんやないか、捨てんか!と注意をしたが、缶を捨てた子どもは知らんぷり。
そのとき、腰の曲がったおばあさんが、どっこいしょっと、子どもが車道に捨てた缶をひらった。その姿はとても自然で、とても清々しかつた。
平成に入って始まった第29回なにわ淀川花火大会の会場である淀川の堤防に向かって、見学者が様々ないでたちで歩いている。とりわけ浴衣を着ている若者が増えているが、どうも似合わない。特に上半身の痩せた体型が増えたためか、男性の浴衣が似合わない。むしろ外国の方のほうが似合う。
そのなか、車椅子の方が会場に向かっている。会場に向かう集団の熱気のなか、汗だくになって迷惑をかけないようにと一所懸命に進んでおられる。しかし花火に向かう集団の誰も、そんな車椅子の彼女に気がつかないし、気を遣わないし、思いを致さない。
大阪をつくりあげた水路ネットワークである淀川の夏をあざやかに彩る花火を、淀川の河原で見る人たち、グランフロント大阪の最上階から見るひとりたち、コスパ塚本店の駐車場でこどもたちに花火鑑賞をサポートしているボランティアの人たち、私は家の屋上から見ている。
様々な場所から、様々な人たちが、様々な思いで、同じなにわ淀川花火を見ている。しかしみんな同じ「状況」でないことに思いを致し、気くばり、心くばりをしないといけないことを花火を見る風景から、感じた。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 8月5日掲載分改〕