大坂と江戸のまちの地図は正反対。
大坂は道路をつくってから家屋が建てられ、江戸は家屋ができてから道路をつくった、といわれる。大阪の道路は縦横平行、江戸は放射線状に町割りがおこなわれた。
大阪ガスビルは御堂筋と平野町通と道修町通にかこまれている。
大坂の地図には「筋」と「通り」という道路名がでてくる、現代の大阪の地図もそう。江戸での「通り」という道は大きな道路(メインの日本橋通など)という意味であり、方角に関係はない。一方、大坂では南北の道を「筋」といい、東西の道を「通り」という。
まず豊臣秀吉が大坂城を上町台地につくった。
大坂城に向かって、東西を「通り」としてつなぎ、まちがつくられた。縦には淀川の支流大川から南に「筋」を交叉させていく。よって東西の「通り」がメインで、「筋」がサブであった。ちなみに大阪ガスの住所は「平野町4丁目1−2」である。今も住所・町名にその都市づくりのコンセプトが残る。
大坂三郷には620の町(北組250町、南組261町、天満組109町)があった。
江戸時代の大坂は最盛期人口35万人であったと記録に残っており、町あたり500〜600人だったと考えられる。小さな中学校くらいの規模である。町のみんなが知りあいだったと考えられる。
その町々の通りには木戸があり(通と筋がクロスするところには木戸はない)、道をはさんでひとつのユニットとして町(両側町)が形成され、町ごとにルールを決められ、町としての「行事」、「自治」がおこなわれた。
大阪は人と人との関係、家と家との関係が短いといわれるが、木戸と木戸とで区切られた町は、濃密さと心地よさと安全性と信頼感を生み、一方窮屈さもあったろう。しかし、よく考えられた機能的かつ効率的なまちだったと思う。
今、私たちが見ている御堂筋の幅は広い。
御堂筋は、幅46.3m(24間)であるが、もともとは3間(5.91m)という細い道であった。江戸時代から明治にかけての大坂の道は狭かった。大坂は、江戸のように馬や牛車は使わなかった。荷物は川・堀を川船で運ばれていた。
ともあれ、江戸時代から明治の道路幅は今から考えたら狭い。3間(5.91m)ないし5間(9.85m)で、向きあう商家の動きがよくわかった。
また、心斎橋通では夏になると両側の商店の屋根から屋根に覆(おおい)をかけて、道=まち全体を日陰にし、日射をさえぎっていた。今でいえば、アーケードだろう。道幅が狭かったからできたことだが、驚く光景であった。
大阪ガスビルの屋上から1937(昭和12)年に完成した御堂筋を見た。
大阪・梅田から難波まで南北一直線につらぬいていることがよくわかる。車がひっきりなしに走っているが、100年前には東西の「通り」を基準に人々が生活し歩いていたこと、淀川に加えて堀が海から船場に水路ネットワークされ、川・舟が行き来していたことを知っている人は少ない。たった100年前のことなのに、みんな憶えていない。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 8月30日掲載分〕