「比叡山からの帰りです。明日は奈良の薬師寺に行きます」
電車の前の席に座っていたオランダの女性から声をかけられた。彼女は神戸を拠点に2ヶ月間、近畿をまわるという。インバウンドは団体旅行から個人旅行へ、1〜2泊の観光ツアーから1〜2週間、さらには1〜2ヶ月のロングステイの体験型・交流型に移行しつつある。
近畿は世界基準ではコンパクト。大阪を軸に40キロ圏内で神戸・京都・奈良はすっぽり入る。1時間もあれば、近畿の主要なところにアクセスできる。近畿は多様性があり、魅力的な時間軸あふれたアイコンがある。たとえば高野山と伊吹山をつなぐ、山の辺の道と琵琶湖をつなぐ、興福寺と東寺をつなぐ、船場と伏見をつなぐ、姫路城とハルカスをつなぐなど、外国人は日本人以上に近畿の地域性・独自性を理解し、地域の点と点を結びつけ、独自のシナリオ、ストーリーを描き、近畿を巡って日本人以上に日本的なるものを理解、知りつくそうとしている。
「神戸港、コンテナ取扱数最高に、阪神大震災前超す」とのニュース、感慨深かった。23年前の大地震の翌々日、大阪港より神戸に向けて当社の物資運搬船に乗って、船上から見た地震で破壊した神戸港の状況が目に浮かんだ。
神戸港が開港して150年。しかし神戸の歴史はとてつもなく古い。神戸という地名の由来でもある生田神社(「神封戸」)および長田神社(「神戸職」)の創建は1800年前の201年。瀬戸内海から難波・大和に入る旧摂津国の入り口にあたる神戸・垂水に巨大建造物(五色塚古墳)を5世紀に建て、大和朝廷の権力を示威する場でもあった。
神戸は古代より大陸や国内各地と大和、難波、京都をつなぐ交通、輸送拠点だった。平清盛は「大輪田泊」で日宋貿易を、室町時代は「兵庫津」として日明貿易を、江戸時代の北前船などによる西廻り航路、樽廻船などの江戸航路の港のひとつとなる。兵庫(神戸)で受け入れ、それを京都と大坂に流通した。そして1868年に「神戸港」として、海外に向け開港。一時、日本最大の商社となった神戸の「鈴木商店」の拠点港として、神戸港は飛躍的に拡大する。
神戸に住んでいる人はよくこんなことをいう。「東京や大阪から神戸に帰ってくると、空が広く見える。海と山が近くて心地がいい」と。神戸の空気がちがうという。地形からくるものかもしれない。横浜の地形と似ているが、神戸の街はより山と緑が近い。
明治に入って、神戸発の商品やサービスが大量に生みだされる。日本初のものが多い。150年前、大阪港とともに開港した神戸港の居留地を海外の企業が選択したのは、この住み心地のよさと、ビジネスに必要な貿易商社、商社、問屋へのアクセスのしやすいコンパクト性からだったという。食品企業を中心に欧米、アジアから多くの企業が神戸に進出し今も多くが残る。
世界から新たなモノやコト、サービスという「コード」が大量に神戸に入ってきた。神戸はそのまま受け入れて右から左へと流したのではない。神戸は「神戸ブランド」というモードに変換していった。神戸のもつ圧倒的な歴史性とコンパクトな近畿の拠点とのネットワーク性によって、世界「コード」を日本的な独自のもの、神戸ブランドというモードに翻訳して、全国に広げていった。
阪神大震災から22年。神戸港のコンテナ取扱数が戻りつつあるという。それは補助金だけでなく、神戸の持つ地政学的な強みである拠点性と、コードを受け入れモードに編集しつづけた神戸の「編集」能力、「住みやすさ」という都市としての本質が取り戻されつつあるからでもないだろうか?
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 9月11日掲載分〕