「①仕事量と人員配置を調整して欲しい ②仕事着を交換して欲しい ③月に5日の休暇が欲しい ④食事を改善して欲しい ⑤3日に1度、薬分として酒を支給して欲しい ⑥食事に麦を出して欲しい」
現代の文書ではない。天平11(739)年に平城京の写経所職員が待遇改善を要望した文書(下書)だ(2016年「第68回正倉院展」)。これを読んでいると、科学技術は格段と進んだが、人々の感じ方、考え方、精神的なものは1300年前の平城京に生きた人と現代を生きる私たちは大きく変わらないと感じる。にもかかわらず、私たちは昔のことを古く、参考にならないものと思いがちである。
高齢社会という言葉、1日にいろいろな所から何度も耳に入る。マスコミから、自治体から、企業からと、様々な場から「高齢社会だから…」という話が聴こえてくる。高齢者問題は現代だけだろうか?
北条幻庵(97歳) 龍造寺家兼(93歳) 真田信之(91歳) 北条早雲(88歳) 島津義弘(85歳) 尼子経久(84歳) 宇喜多秀家(83歳)─ 戦場で死ななければ戦国武将は長寿だった。
葛飾北斎(90歳) 杉田玄白(85歳) 貝原益軒(85歳) 滝澤馬琴(82歳) 上田秋成(76歳) 良寛(74歳) 伊能忠敬(74歳) 徳川光圀(73歳)─ 江戸時代も長寿者が多かった。天平11(739)年の「出雲国大税賑給歴名帳」という名簿を見ると、80歳以上の年輩者も多く入っている。
「高齢社会」が現代およびこれからの社会課題というが、昔にも高齢者はいた。20歳以上人口における60歳人口の比率は1970年以降に急騰したが、高齢化社会となった1970年の20歳以上人口に占める60歳以上の人口比率のは、明治時代から1970年までほぼ15%がつづいていた。
律令社会での官僚定年(致位)は70歳。鎌倉時代の御家人の引退目安も70歳。江戸時代の老衰隠居も70歳。奈良時代から江戸時代まで、ずっと70歳。1834年の江戸城の70歳超の役人は50人で、最高齢は西丸槍奉行・堀直従の94歳。現代よりも高齢者が活躍していた。
数え61歳の還暦を迎えると、「大人」から「老人」と呼ばれ、公儀や村の使役(労働提供義務)が免除され、地域における神事、仏事、もめごとの仲裁という役割が与えられた。船場の商人も隠居して、町の自治や教育者となったり、若い人たちへのサポートをおこなった。世代間での役割分担や棲み分けが、地域や組織という場で機能していた。
江戸時代の商人であった伊能忠敬は49歳で隠居。家業を長男に譲り、50歳で江戸に出て、天文・暦を学び、56歳から17年かけて日本全国各地を歩き、測量し「大日本沿海興地全図」をまとめあげた。隠居して73歳までの17年間で大きな足跡を残した。このように高齢者の村や町、組織のなかでの明確な役割と第2の人生プログラムが社会システムとして軌道していた。
江戸時代は「敬老」が奨励され、長寿の祝いは70歳(古希)、80〜100歳になると養老米が支給され、身寄りの無い老人には養子斡旋がおこなわれ、地域全体でサポートされていた。ちなみに「桃太郎」「竹取物語」「花咲じいさん」などの童話に、おじいさん、おばあさん二人だけの生活に「子ども」が突然あらわれるというストーリーは、実は当時の地域社会での価値観・様式を反映していた。
「サザエさん(1946年スタート)」の磯野波平はなんと54歳、磯野フネは48歳という設定。時代とともにシニアイメージは変わるというが、奈良時代から現代まで高齢者は沢山いて、元気な高齢者が社会に貢献した。葛飾北斎が名作「富士越龍図」を書いたのは、晩年90歳だった。
人は成長しつづける。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 10月11日掲載分〕