「五稜郭」は紅葉が映える。幾何学的デザインの妙とともに、幕末につくられた堅牢な城壁都市に圧倒される。それまでの日本的な都市づくりとはちがう空間が見える。五稜郭は、フランスのセバスチャン・ヴォーバンが考えた、外敵の襲撃に備えて都市全体を城壁で囲む「稜堡式城壁方式」をモデルに、函館奉行所を守るようにつくられた。建設して数年後に函館戦争の場となる。
日本の都市は、戦国時代などの「城壁都市」を別として、川、海といった水路と道とが交わる場に「市」がたち、人が集まり、「まち」がうまれていったのが基本である。
言葉もそうだ。かつては道や川や海が言葉をはこんできた。たとえば江戸時代の大坂で商売上の「共通語」として使われていたのが船場言葉であった。しかしながら大阪の言葉も単純ではなく、多様な言葉が交わされた。幕末の学者によれば、「安治川あたりは四国、九州、中国の言葉が交じり、上町、玉造では大和や伊賀、伊勢の言葉が、堺では紀州、和泉の言葉、天満では丹波、丹後の言葉が交じっている」という。つまり道や海、川を通じて、人がモノをはこぶなか、言葉がはこばれ、言葉と言葉が交じりあった。このようにモノが人や船などではこばれ、「交差点」で交換しあい、人と人とが交流し、触発しあい、刺激をあたえあった。
「出会いもの」という言葉が日本料理にある。旬の食材を“まぜ”て、それぞれの良さを引きたてあう。元の食材が見えなくなるような「混じる」料理と、元の食材の形が見えるような「交じる」とが組み合わせて、日本料理が構成されていく。その季節にしか捕れない海の幸、収穫できない山の幸、里の幸を意図的にまぜあうことによって、絶妙な味を生み、日本料理を豊なものにした。
今の日本になくなりつつあるのが、この「出会いもの」。出会いものには、混じることと、交じることとがある。いつからか私たちの生活や仕事のなかに、この「交流」や「混合」という場や、仕組みがなくなっていった。内と外とがくっきりと分けられるようになった。
かつては、内か外かが判らない土間や路地、縁側や中庭があった。たとえば自分の家の縁側に隣のおじいさんが座っていたり、路地でボール投げをしている近所の子どもたちをおじいさん、おばあさんがあたたかい眼差しで見守っていたりしていた。このように内でもない外でもない、内でも外でもある“中間”が、まちのいろいろな場にあった。私でもあり公でもある“中間”があった。そのようにして点と点とが交わること、つながること、混じりあうことで、独創的なものを生みだされていった。「共」が生まれ、あっというもの、いままでにないこと、すごいものがうみだされた。
その“中間”がなくなったことで、点と点、線と線とが交わらなくなり、「共」が生まれなくなった。もっといえば、このような内でもなく外でもない、内でもあり外でもある“中間的”な場が、住まいや会社、そしてまちからなくなったことで、そもそもの「共」そのものがわからなくなった。いま、この交と混から共が生みだされる“中間的”な場が求められる。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 11月1日掲載分〕