「めちゃくちゃ、なんやいろんなものがあって、パワーがあって、それがみんなを惹きつけた」
と大阪万博を振り返る人がいる。EXPO70大阪万博といえば太陽の塔。男鹿半島のなまはげとカラスをモデルにしたといわれる岡本太郎氏の作品。戦後25年、ゴツゴツとした土のにおいもする当時の日本を抉った場でもあり、時代の空気が濃厚に会場に漂っていた。
「熱狂的で混沌だった」という人もいる。パビリオンに加え、「お祭り広場」では国籍、人種を越えた世界の人々が半年にわたり集まり、熱情を発しつづけた。お祭り広場は小豆島の亀山八幡宮がモデルであり、日本の伝統的な祭りというプラットフォームに世界の祭りがかさねあわされ、毎日が祭りだった。どうしてあんなに熱狂的な空間がうまれたのだろう。
「これで、やっと戦争が終わったと思った」とのちに振り返られたのが、EXPO70の基本構想にかかわった小松左京氏。大阪万博が開催された1970年は6年前の東京オリンピックにつづき、日本は高度経済成長を突っ走り、司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」を書きつづけていた。この「坂の上の雲」が描いた舞台「日露戦争」の2年前の1903年は、明治維新から36年後にあたり近代日本づくりを目指し、全国から435万人を集客した「第5回内国勧業博覧会」が大阪・天王寺で開かれた。そしてその67年後に戦後日本の復興を目指した大阪万博が開かれた。
「その万博にかかわった開催者は驚くほど若かった。文系と理系とがほどよくバランスがとれたメンバーで構成され、議論・検討されていた」と語られたのが大阪大学橋爪節也教授。1970年万博の企画・設計・運営にかかわった方々は20歳代、30歳代と極めて若く幅広いジャンルの人たちが集まった。異なったバックボーンや経験、知見、考えをもった幅広い年代のメンバーが、過去と未来、日本と海外とがつながれ、ワイワイガヤガヤと議論をしていた。その47年後の現代、仕事やプロジェクトなどの構成メンバーや進め方のちがいを感じる。
時を経て過去を振り返ると、あのときにうまれた、変わったと感じることがある。たとえば1903年の内国勧業博覧会の前と後、1970年の大阪万博の前と後で、「不連続」がうまれる。
博覧会によって様々なフィールドのモノ、コト、技術がひとつのまちや社会を想定した「プラットフォーム」に集められ、ゆさぶられ、ぶつかりあい、意見をたたかわされ、反応しあい、反響しあうことで、それまでとは不連続に新たなものが生みだされる可能性がある。
コンテンツはその時代の背景であるコンテクストを踏まえないといけない。一方、斬新的で、独創的なコンテンツが新たな時代の背景であるコンテクストを生みだすことある。2025年の万博に立候補する大阪万博がどのような時代のコンテクストを生みだせるのか。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 11月16日掲載分〕