北前船の海藻を見て、昆布に加工して、出汁をつくり、上方料理をうみだした。
北海道の海藻を見て、この藻をなにかにつかえないか、この藻を食べられないだろうか、と考えた人たちがいた。そしてこれを売れないかと考えて、「船」にのせて数ヶ月かけて北海道から上方に向けてはこんでいるうちに、昆布はさらにおいしくなった。さらにこの昆布をつかった料理がいろいろなところ、いろいろな人が考えて、食べた。また船ではこんでいるうちに、出汁がでる。飲んでみると、実においしい。この出汁をつかった料理がうまれ、料理は深い味となった。さらに昆布だけでなく、鰹節や鯖節や鮪節などをブレンドした出汁をつかうと、さらに豊かな日本料理となった。
北海道の函館に、北前船の跡を探しに歩いた。
移動中のタクシーの方から「大阪の方ですよね?言葉でわかります。昆布関係の大阪の人が函館には沢山来られます」と。函館には昆布のお店が多い。巨大な昆布のモニュメントもある。料理も大阪と同じく昆布出汁である。その函館に立像がある。函館山を背に、高田屋嘉兵衛が函館の海の遠くを見つめている。
明治6(1769)年に高田屋嘉兵衛は淡路島に生まれた。28歳のときに北前船で箱館(現、函館)にわたり、箱館を本拠地に北洋漁業を、北前船で日本海岸各地域、瀬戸内海地域、上方との交易をおこなった。とりわけ「昆布」が函館と大阪を密接につないだ。現在も大阪と函館との商業の取り引きが多い。司馬遼太郎が高田屋嘉兵衛を「菜の花の沖」にて描いた。昆布文化は深く長い。
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(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔CELフェイスブック 11月17日掲載分〕