“外国に行きたいと思う人?”と、塾の先生が小学 6年生に質問したところ、30人中3人しか手をあげなかった。“どうしてなの?”と訊くと、「めんどくさい」といっせいに答えた小学生たち。“外国で、いままでとちがったものを見ることができるよ”と問うと、「わざわざ外国に行かなくても、グーグルアースで見れるよ」といっせいに子どもたち。場の空気は、“めんどくさい”につつまれる。
本当は外国に行きたい子どもは多かっただろうが、場が「めんどくさい」という空気をつくってしまう。1割しか外国に行きたくないという数字が、現代の「内向き」日本を象徴する。外に行かない。わざわざそこに足をはこんで、そこの空気、寒さ暖かさ、風や光、においを全身に感じて、そこでなにかを見なくても、そこでだれと話をして、そこで話を聴かなくても、スマホでわかると思っている。だから、そこに行くのは、めんどくさい。子どもだけではない、若者も、大人も、「めんどくさい」という。口癖だということではない、深い社会構造がある。
結婚するのがめんどくさい、就職するのがめんどくさい、なんでもかんでもめんどくさい。なぜ結婚しないのか ─ 結婚したくないのか?結婚できないのか?なぜ就職しないのか ─ 就職したくないのか?就職できないのか? ─ そのどちらでもない人たちがいる。「結婚」や「就職」という形態が現実や時代の流れ、価値観と適合しなくなっている。これまでの考え方・形態・仕組み・ルールと、現代社会がずれ、「適合不全」となる。逆に無理やり合わそうとすると過剰適合となり、また別のいろいろな問題をひきおこす。だから「めんどくさい」が増える。
「ええんちゃう」も、増えている。「それでいい」という意味の大阪弁だが、これまでとちがったニュアンスの「ええんちゃう」をまちのあちこちで耳にする。「そうしたいんやったら、ええんちゃう」「もう、ええんちゃう」。
道端にゴミがすてられていても、停めてはいけないところに不法駐車していても、「(本当はあかんけど)ええんちゃう」。誰かがまちのなかで騒いでいても注意せず、「(あの人たちが好きでやっているから)ええんちゃう」。満員電車のなかで大きなリュックサックを背負ってスマホのゲームをしている人がいても、「(迷惑だけど逆ギレされたらこまるから)ええんちゃう」。考えに考えたが判断がつかなくて上司に相談しても、「(あなたの責任でやったらいい)ええんちゃう」。
「ええ=いい」わけない。一見ものわかりが良いようにうつるが、問題だと思う事柄についても、やたら「共感」を示し、受け入れるふりをするが、本当は「いい加減」そのもの。別の見方からすれば、「放置」。無責任でリスクをとることから逃げて、責任を放棄する。「あの人たちがやりたいと言っているのだから、やらしてあげたらええんちゃう」という場の空気がうまれていく。「こんなことしたら、あかんのとちゃう」といって注意して、物事を正して、よりよい社会、会社、生活をつくっていこうという空気が薄れつつあることが気になる。
「ええんちゃう」─ そんなわけない。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 2月23日掲載分(改)〕