江戸時代に生まれた創業 100年以上の“無名”の商家が現代に続き、戦後にたちあがった“有名”な企業があっという間になくなる。なぜ組織的強さが持続できなくなっているのか。
起業・創業するのだといって、こじゃれた場所で、こじゃれた格好をして、こじゃれたプレゼンで、キラキラしたビジネスを目指す人が多い。キラキラに輝く“成功者”の体験をメディアがキラキラにいたるところで伝え、すぐに感化される人が増え、“私も俺もボクも、そうなれる”と軽く野心をもち、すぐに実現できると思いこむ、とても賢く器用な人たちがあらわれた。
なぜそういうことがおこるのか?技術の進展に伴い実物感のない価値で、“力のある”人間に見せかけやすい時代となった。ITを用いた金融商品やネットワークビジネスなどで、“力”があるように見せかけやすくなった。
一方大人たちは“そんなことも知らないの”と馬鹿にされたくないので、判らないのに“そうかそうか”と判ったふりをする。技術の進展スピードについていけず、判ったふりをして黙認する。ITなどの新たな技術・言語を器用にマスターし、大人たちが判らない“言葉”を振りまわす若者。大人たちは新たな技術が理解できないから、なにも言えなく、もの判りのいいふりをする。若物は、なにも言わない大人たちが理解できず、お互いの言葉が通じない“ブラックホール”がいろいろな場にできている。
情報やナレッジがなんでも簡単に手に入る、努力しなくてもうまくいくと勘違いする時代。軽く薄く短いサイクルの時代。すこしうまくいっても長続きしないのは、「基盤」「基本」「重み」「骨太さ」「長期的展望」がないから。特定の技術やツールで簡単にできると思い込んでいるから、キラキラ輝く成功物語をメディアが後押しする。
一人の力で、どうのこうのできる時代ではない。ひとつの技術で、簡単になにかすごいことができるほど単純な時代ではない。いろいろなことが同時にいろいろなところでおこり、相互に刺激しあう時代。Aというすごい人がいて、Bというおもしろい人がいて、Cという元気な人がいて、技術の人も文系の人も、いろいろな世代の人、多くの国々の人、多様なバックボーン、キャリア、文化をもった人がいて、これまでの前提をゼロベースにして、それぞれが意識しあい、認めあい、おもしろがり、刺激しあう関係、プロセスによって“本物”がうみだされていく時代である。
大阪のグランフロント大阪のナレッジキャピタルで、「ナレッジキャピタル大学校」が4月18日(水)、19日(木)の2日間に開校され、100コマの授業がおこなわれる。AIやロボットの技術も歴史も天文学も美術、文化…まさに文理融合、ビジネスの“ごった煮”の学びの場がひらかれる。いろいろな角度、ベクトルの人が集まり語りあう“多様性”ある場をつくり、プロトタイプをみんなの知恵でつくり、実験し試行錯誤するというプロセスの繰り返しが、今、日本に求められる。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 4月11日掲載分〕