イタリアのランチタイムは 13時半から15時。少し遅いが、なぜか?イタリアの多くの小中学校の授業は正午すぎに終わり、12時20分に家族が学校に迎えに来て、一緒に家路につく。両親も仕事場からランチのために家に帰ってくる。家族が一緒になってランチをする。だからランチの時間は13時半からとなる。イタリアの家族は二世帯、三世代の同居・近居が多い。まず家族があって、家族がつながるために、「食」があり、家庭の食卓で、リストランテやトラットリアやバルで、家族、友人、知人がつながろうとする。ディナーなどは3時間も4時間もつづく。料理が出てくるのが遅いなどとは言わない、シェフたちは一所懸命つくっているのだからと気にしない。延々とお喋りするプロセスのなかに、料理がある。イタリア人はなにを守り、なにを大切にしようとしているのかは明らかだ。
日本もかつて家族みんなで、昼食をとっていた。日本の家庭の料理の世界で劇的なことがおこったのが2000年代。日本の料理レシピの標準メニューが4人分から2人分となった。1950〜60年においては「6人」だった標準家族が1980年代から5人世帯に、そして4人世帯となり、夫婦のみの世帯と単身世帯、つまり1〜2人家族が半数を超えたことから、料理レシピのメニューが2人分となったーだから日本人が孤食化する、家族でも「ひとりごはん」が当たり前になったというストーリーは一見正しそうで正しくない。どこかおかしい。なすがまま、流れるままの諦め感が“日本の食”、家族のつながりを細く弱くしていっている。おなかがすいたから食べる、食欲を満たすために食べる、栄養をとるために食べる ─ たしかにそうだが、それは即物的すぎて供給者論理で、なにかがおかしい。
韓国では、「食事、食べた?」「食事は、すみましたか?」と挨拶がかわされるという。食口(しっく)という韓国語は、“家族”を意味する。食事をともにする、いっしょに食べる関係を“家族”だという。さらに発展して、“一緒に働く人”という意味で使われている。韓国では、家族や仲間をつなぐための「食」という場が大事にされている。
韓国語だけではない。companyという英語は「会社」と日本語訳されるが、そもそもcompanyには会社という組織形態だけでなく、仲間とか友人とか一緒にいる人、行動をともにする人という意味がある。companyの語源はラテン語のcompanionで、「ともに(com)」、「パン(panis)」を、「食べる(ion)」ことを意味するという。やはり、“食”が人と人をつなぐというのが本質である。
この食の本質は日本も同じだったはずだが、「食」の位置づけが、近年大きく変質していった。とりわけ単身者が増えるから、女性が社会進出しているから、“物理的”“時間的”制約で、孤食、ひとりごはんが増えるのだ、それは致し方ないことなのだという論理が日本ではまかりとおる。しかし、それを与件としていいのだろうか?家族形態が変わるから、心のこもらない寒々とした部屋でひとりで食事をとることを前提条件と考えるということは正しいとはいえない。
そもそも日本で、ちゃぶ台で座り、家族が輪になって食事をしていたのは、そんなに古くはない。サザエさんの家の食卓は、ちゃぶ台である。ちゃぶ台が普及する前の日本住宅では囲炉裏端に家族が集まって、食事をしていた。家族が火を囲んで、輪になって食事をしていた。それぞれが座る場所が決まり、その日にあったこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、残念だったことを食事をしながら、だれかが喋り、みんなが耳を傾けて聴き、話しあっていた。食事をしながら、家族がみんなのことを共有していた。それは決して古い昔のことではない。
生きるために食べることではあるが、食とはそれだけではない。食とは、家族、人と人とがつながる場でもある。家族が少なくなるから、一人ごはんとならざるを得ないと考えるのではなく、人と人とがつながる場をつくりあげることを第一に考えるべきではないだろうか。日本はともすれば、いままでやったことがないからできない、お金がないからできないといって、現状をそのまま受け入れて、対処療法しようとする。よって目的と手段が逆転する。食の本質はなにかを考えず、その本質である「家族のつながり、人と人のつながり」をいかに守り育てるために、なにができるのかを考えず、食のことだけを考えて修正しようとする。しかし変化は起きつつある。家から飛び出て、まちのいろいろなところに「つながる場」ができつつある。今までの延長線ではない新たなつながりの場の取り組み、JR大阪駅のルクアの地下の「つながりの場」に驚いた。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 5月10日掲載分〕