学部・学科のタテ割りに自分の専門という「タコツボ」化した大学や役所だけではない。民間企業でもこの言葉が蔓延っている。ゼネラリストからスペシャリストといいだしたり、個人業績評価制度を導入しだした20年前ぐらいから、特にそうなった。同じ専門・細分化した「タコツボ」たちが集まり、“予定調和”のまとめをする。一方、“専門”が別々のタコツボがひとつの場に集まったら、意見を交わさない、議論できない、話があわない。それは“先生”の世界だけではない。会社でも、若い人たちのミーティングでも、同じような現象を見かける。議論がかみあわない、そもそも人の話を聴こうとしない。現代は個人の力でどうのこうのできる時代ではない。個人と個人とが認めあい刺激しあって、新たなものをつくりだす時代である。それなのにチームワークが苦手になってしまった。いつから日本はこんな国になったのか?
「こんなに、すごい人がどうして続々と出てきたのだろう」。JR久留米駅を降りると、田中久重の太鼓時計をモチーフとした「からくり太鼓時計」と久留米発祥のブリヂストン寄贈の世界最大のタイヤのモニュメントが出迎えてくれる。福岡県久留米市には真木和泉、田中久重、石橋徳次郎、石橋正二郎、倉田雲平、日比翁助、青木繁、坂本繁二郎、中野浩一、宮崎哲弥、チェッカーズ、松田聖子、松重豊、藤吉久美子、田中麗奈、吉田羊 ─ と多士済々。豊かな水量の筑後川が物流・交通の要衝地の久留米を生み、町を行き交う人たちが刺激を与えあって独創的な人材を育てたのだろう。
「いわば明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなものである」と、司馬遼太郎が書いた鹿児島市加治屋町もそうだ。西郷隆盛、西郷従道、大久保利通、税所篤、大山巌、山本権兵衛、東郷平八郎、黒木為? ─ と江戸時代は下級武士の居住地であった加治屋町から多くの政治家、軍人を輩出した。雄大な桜島に見守られながら、「詮議」で有名な「郷中教育」によって、武士の子どもが加治屋町のなかで骨太の人材として鍛えられ、日本の屋台骨を支えた。
また九州と畿内を結ぶ交通要衝であった山口県萩市でも、人材輩出。周布政之助、久坂玄瑞、吉田松陰、高杉晋作、山縣有朋、木戸孝允、品川弥二郎、井上勝、山田顕義、桂太郎、田中義一、笠井順八、藤田伝三郎、田村市郎、久原房之助など、幕末から明治にかけて日本を動かす人材を萩市が大量にうんだ。明倫館に郷校、寺子屋、松下村塾など私塾に学び、武士のみならず農民、職人、商人もまじえた学びによって育てられた人材が、日本を動かした。
福岡久留米も鹿児島加治屋町も山口萩も、その場所に行って立つと、極めて狭い町であることに気づく。歩いたら、すぐに一周できるぐらいの広さの町だ。江戸時代から明治にかけて、その狭い空間に、どうして日本を動かす人材がこのように多く育ち、輩出されたのだろうか?ひとつには江戸時代の城下町などの都市計画で、武士、寺、町人の職種ごとに集められた高密度な町割りがされたこと、藩校や寺子屋、私塾など「学びの場」が町ごとにつくりうまれ、狭い都市空間のなかに人々が交流・交錯し、学び、鍛えあった。とりわけ私塾は多様で、関心のある私塾に通い、専門分野だけでなく様々な学びをしたことがあげられる。そして国内ならびに海外との交易の要衝であったそれぞれの町では、ヒトやモノの往来とともに新たな情報、異なる情報を交流させた。町の人たちは多種多様な情報を集め、学び、編集して、力をつけていった。今の日本が欠けているのはまさにこれ。圧倒的に、学びが足りていない。
このようなかつての久留米、加治屋町、萩のような高度人材育成を輩出する高密度なまちづくりの仕組みは世界でも生きている。たとえばオーストラリアのメルボルン。メルボルン市は海外の企業誘致するのに補助金や税制優遇はおこなわない。メルボルンに世界企業に立地してもらうため、才能ある若者や高度人材にとって住みやすいまちづくりにしてきた。それが「世界でいちばん住みたいまち」となった。もう一点は金融やハイテク企業や各企業のクリエイティブ部門のような人的な交流を重視するビジネススタイルの業種をメルボルンの中心に一社ずつ集め、周辺部に立地していた大学を都心部によび戻し、知的人材どおしが交流できる「ナレッジの密度」を高めていった。こういった取り組みはネットワーキングが必要で、同業だけでなく他業種の交流が重要と考える企業に受け入れられ、さらにより高密度なナレッジシティとなった。
かつて日本がつくりあげてきた高度人材を輩出した高密度なまちづくりの仕組みを現代版につくりなおせないだろうか。日本以外では次々と知的人材を輩出している。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 6月15日掲載分〕