地名には記憶がある。古墳時代、大和朝廷の職人集団が住む「玉造部」は勾玉(まがたま)の製造拠点だった。やがて大坂城下に入り、明治維新後に大阪砲兵工廠の関連商店や工場が広がって「大大阪」を支える。今、そこはJRの駅名や地名に「玉造」という名を残す。
「天下の台所」となった上方では、北海道の海藻を見て昆布をつくり、出汁にして上方料理を生んだ。綿花を見て着物にし、ファッションを育てる。菜種を見て菜種油にし、夜を明るくした。海路によって全国から物資を集め、いろいろな人が集まり、「それ、いいな」「これ、いけるのとちゃうの?」といったワイガヤから独創的なビジネスを次々と生みだしていった。
このワイガヤの土壌が、明治になって近代の上方を生む。大阪に設けられた舎密局(明治政府が開講した理化学研究機関)、造幣寮、砲兵工廠といった近代産業基盤が整備され、大阪紡績がトリガーとなって、東洋のマンチェスターと呼ばれる「商業・産業」都市が生まれた。この地が永年培ってきた港湾・水路による圧倒的輸送力、商工農が連携した付加価値創出力、問屋・商社による交易力 ─ などが、紡績、繊維、機械、家電という産業を上方に生みだしたのである。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔産経新聞夕刊 11月20日掲載分〕