文化10(1813)年の大坂・船場。薬種問屋が集まる道修町3丁目の会所で、長崎奉行手付(下級武士)を大坂商人が本膳料理でもてなした。
一品ごとに並べる現代の会席(懐石)料理と違い、本膳料理は5つの膳が一度に出される。食事は「三の膳」まで、鯛の姿焼きの「与(四)の膳」と菓子の「五の膳」は持ち帰り用。
本膳料理は武家の儀礼料理で、型や決めごとがある。飯茶碗を持ち、一口食べ、汁椀を飲む ─ という手順を3度繰り返す。飯は一口残して茶漬けにして香の物と食べる。移り箸や食事中は会話しない ─ などの作法がある。奇数の様式美学が貫かれている。
神饌(しんせん)料理や奈良・平安時代の宮廷の大饗(おおあえ)料理に続き、禅宗の精進料理が中国からもたらされた。魚と鳥を扱う包丁人と、野菜調理の調菜人が合作する調理法が広がる。
海外の料理・食器などの様式を日本の風土、食材に翻訳して日本独自の食に再構築される。公家儀式の大饗料理と精進料理を融合して武家のもてなし「本膳料理」と、千利休の茶席で「懐石料理」が生まれた。自然の恵みの旬の食材を感謝の心でいただく。熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、という料理美学が日本人の心を打ち、今に受け継がれる。これらの食文化は上方で生まれた。
江戸時代、大坂に全国から人が集まり商業都市となる。商談がまとまれば茶屋や料理店でごちそうがふるまわれ、最後は手合いに。江戸の「義」の文化に対して、上方は「儀」の文化が発達する。
西廻り航路などによって全国の食材や物産が米、青物、魚の市場に集められ、大坂は「諸国の台所」となる。新鮮で豊富な旬の食材を使い、甘すぎず辛すぎず、濃すぎず薄すぎずという「浪華の喰い味」が生みだされる。
先日、江戸・京都・大坂の三都の出汁比較を試みた。和食の基礎の味である出汁にはそれぞれの食文化の違いが凝縮されている。各都市が調達できた食材と水、醤油が三都独自の出汁を生んだ。硬水のため昆布のうま味が出にくく鰹(かつお)出汁中心の江戸、利尻昆布と鰹を7・3の比率で出汁をとった京都、昆布流通を押さえた大坂では真昆布と鰹を半々の比率で出汁をとった。その違いは圧倒的である。出汁には日本の地域文化が凝縮されている。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔産経新聞夕刊 2月19日掲載分〕