大大阪は突然うまれたわけではない。江戸時代に天下の台所と呼ばれ、日本の富の70%が集められた大坂は、明治維新で打撃を受ける。銀目停止(幣制改革による銀貨廃止)、蔵屋敷・堂島米会所の廃止などの新政府の経済政策で江戸時代からの豪商の多くが倒産した。結果、大阪から人や店が減り寂びれてしまう。ところが約60年後、日本一の人口・経済都市となった。
大阪はどう復活したのか?
当時、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれた。紡績・繊維業と、「五綿八社」(伊藤忠、丸紅など)と称された綿花商社・繊維商社が連携。世界から原材料を調達し、商品化して世界に販売するグローバルビジネスに踏み出した。
これは明治になって生まれたわけではない。江戸時代の大坂近郊の綿織物業と船場の繊維問屋、大阪港・川・堀などの水路、旧蔵屋敷の倉庫活用など、「天下の台所」からの系譜を承継したからこそ、大大阪をつくりあげることができた。
紡績業が大阪の産業導線となった。大阪造幣寮・大阪砲兵工廠などの近代工業と、大阪舎密(せいみ)局・大阪工業学校などの近代工業教育が、天下の台所から承継された商業システムと融合する。それによって独創的で高い技術を持ち、世界とつながる企業が森のように生い茂る「大大阪」をうみだした。大大阪は天下の台所からの系譜を継いでいる。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔産経新聞夕刊 8月20日掲載分〕