「五感」が失われた街となった。9月4日の14時、巨大台風21号が大阪・神戸を直撃。木々・信号・電柱・塀を次々となぎ倒し、トタン板・瓦・看板・標識・シャッター、車までも宙に舞いあげ、様々なものを衝突させた。強風で家・マンション・ビルが音をたて揺さぶる。阪神・淡路大震災や大阪北部地震以上の破壊力を感じた。生まれてはじめての恐怖を覚える。台風21号によって、あっという間に都市の機能が損なわれた。交通、物流、電気、上下水道、河川、橋、港湾、道路など社会システムに影響を与えた。
私の家のある街は3日間、光を失う。日常が突然「非日常」となった。暗闇の部屋のなかで、キャンプのランタン、キャンドル、懐中電灯を総動員して「キャンプ生活」をおくる。漆黒の深閑とする街を消防車、救急車、パトカーのサイレンがこだまする。その音が不安、心理的ストレスを高める。200万戸を超える停電戸数を数日間で復旧しようとする電力会社の「速度」に感服していた巨大台風通過3日後の深夜に、北海道で大地震がおこる。
1 過去を忘れ、明日を真剣に考えようとしない日本人
この巨大台風21号は84年前の室戸台風、57年前の新室戸台風とほぼ同じコースをたどる。小学生の頃、この台風のことを“地元の歴史を学ぶ”授業で「忘れてはいけない災害」として習ったが、大人になって忘れてしまった。23年前の阪神・淡路大震災のことも「地域の災害の記憶」として実感できない人が増え、忘れられつつある。いくら石碑やモニュメントや映像や書物があっても、日本人は過去を忘れてしまう。
気象予測レベルが飛躍的に高まり、今回の巨大台風については1週間前からの詳細な告知、交通機関が先手をうった前日からの運行予定告知やマスコミの積極的な報道が前回の台風につづいておこなわれた。それにもかかわらず、「大袈裟やで」「大丈夫とちゃう」と考え、準備しなかった人も多かった。日本人は「過去」を忘れ、「明日」を真剣に考えない。しかしなにかが起こったら、「予想外」だといって慌てる。その「なにか」が今回のように大きかったら、「パニック」になる。
2 自分には起こらないとおもおうとする日本人
東日本大震災や熊本地震以来、BCP(事業継続計画)という言葉が広がった。私も311で起こったことに学び、関西の病院、大学、工場、自治体様とともに、有事におけるBCPでの“エネルギー対策”をおこなった。しかし大半の人は「そこまで考えないといけないの?」「無駄な投資になる。意味がない」と考える人たちが多かった。そのとき真摯に考えて対策をうった数少ない企業・組織はそれ以降の有事を何度も乗りこえた。その経験はさらに企業力・組織力を高めている。
「有事に、なにが起こるのか」、「社会および自らがどうなるのか」、そうならないために「なにをしなければいけないのか」を想像できない人々、企業、組織が増えている。本来日本人が強かった「想像力」が劣化しつつある。有事にどうなるかを「自分ごと」と考えないから、動かない。都合の悪いことは起こらない。起こったとしても自らには起こらず、他の人、他社に起こるはずだと思おうとする。そもそも有事が起こると、お客さまの「生命」に影響する、自らの「事業」そのものがなくなってしまう可能性があることを想像しない。「他人事」だから、有事のための計画をつくるとしても、現場を知らないスタッフが「形」だけ整えたものなので、本当に有事が起こったら大きな問題となって大混乱し、最後は組織のなかで「責任」のおしつけあいをする。
3 「全体のこと」がわからない日本人
今回の巨大台風の影響は甚大かつ広範囲に及んだが、台風通過後の論点は「停電」一色になった。関西国際空港の被害による影響も大きいが、市民生活での電気の位置づけは大きく、「いつ復旧するのか。停電情報が判りにくい」との声が電力会社に一斉に寄せられる。そもそも219万戸という膨大な数の停電は電力会社が引きおこした事故によるものでもない。
台風による被害は、水道、交通、買い物、医療等が同時多発的に起こっているのにもかかわらず、「全体」を見る人がでてこない。それぞれの企業がそれぞれの事業の復旧に全力をあげることは当然である。しかしなによりも大切なのは被害の主役が、「市民」であり「現場」であるということ。現場にいる市民がどうなっているのか、どう苦しんでいるのか?現場全体がどうなっているのか?という「全体」をリアルに見て、「全体構造」をつかみ、考え、行動する人が少ない。
有事において大切な「情報」もそう。停電をしている場合はテレビやラジオにアクセスできない。よってスマホの充電量を気にしつつ、タイムリーかつリアルな様々な市民からのツイッターにて現場の動きを入手し、「全体像」を把握し、考動していた。このように革命的に「情報の流れ」「市民の動き」は変わっているのに、従来の社会システム、制度、仕組みが変わっていない。
問題は、全体を見る人が不在であること。場のなかで関係する人、企業、組織は一所懸命であるが、市民の立場からみたら、全体がどうなっているのかがわからない。主役は「市民」であることは明らかであるが、市民がどんな気持ちで、どうなっているのかという状況を知ろうとも、つかもうともしない。それぞれの場の「声の大きい」人に引っ張られ、全体が歪められる。全体をみる人が不在であり、それぞれの分(役割)が定かにならず、それぞれが分を弁えず、それぞれがつながっていないことが問題なのだ。なにをなすべきかは、はっきりしているはず、動かないだけなのだ。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 9月7日掲載分〕