1300 年前もこうだったんだろう。創建710年、1717年の7度目の焼失を経て再建された興福寺中金堂で催された落慶法要。真っ青な空に雅楽の調べ。能楽に舞楽に西洋音楽、華道に茶道に書道が奉納される。いったい何時代なんだろうか…、天平時代が単純に再現されているのではない、古きを懐かしんでいるのでもない。興福寺での「祝祭」には天平時代から現代を歩いた1300年の流れが混じる。和服の人にスーツ、ドレスの人が混じる。過去と現在とが混じる。アジアと西洋が混じる。日本人に世界からの人が混じる。それに、なんら違和感がない。
752年に催された東大寺盧舎那仏像の開眼供養会も同じだった。今以上に国際色があふれていた。1万人もの僧侶が読経するなか、インド僧である菩提僊那が仏像に開眼する。日本古来の神楽歌、大和歌、久米歌や舞に加え、当時流行していた唐、高麗、渤海、林邑(ベトナム)の音楽が奏でられ、世界のダンサー数百人が舞うという「ページェント」に、参列した日本人は酔っただろう。これら楽舞が融合されて「雅楽」が生まれ、現代につながる。
それから1300年後。安室奈美恵さんの引退コンサート会場に、日本のみならず海外の人が足をはこび熱狂する。まさに「祝祭」。安室奈美恵引退コンサートを特集した沖縄の新聞は爆発的に売れた。引退前のファイナル・ドームツアーのDVDが爆発的に売れている。
新聞が売れなくなった、本が売れなくなった、DVDが売れなくなった。しかし安室奈美恵を特集した新聞、本、DVDは売れる。それも爆発的に売れる。安室は特別なんだ、安室だから売れるのだ ─ そうとも思えるが、果たしてそれだけなのか。
5つのドームツアーのコンサートのプログラムはほぼ同じ内容であるが、5本セットを買われる人が多い。同じ内容だから1本でいいじゃないかと思う人もいるが、5本セットで売れる。このDVDの内容はそれぞれ違っている。別々のディレクターがそれぞれのテーマで、同じコンサートを描写している。芥川龍之介の小説「藪の中」(黒沢明映画の「羅生門」)で表現したような、5人の視点から同一の物事を描くという多面的編集がおこなわれている。だから5セットのDVDが売れる。だから沖縄ラストライブを別々の切り口で報じる沖縄の地元新聞は売れる。
新聞は売れない。本は売れない。DVDは売れない 。そりゃ ネット・スマホが普及しているから、人口が減少してさらに減るから、致し方ない…。そうかもしれないが、一方売れものは売れている。データの時代なのだ、だから紙のもの、DVDは売れないのだというが、 安室の新聞、DVDは売れている。安室奈美恵さんの楽舞の“コード(本質)”を読み解き、その本質が伝わるよう、翻って編集し、感動が濃密に伝わるモード(様式・方法)を考え展開したからこそ、お客さまの心を捉える。コードを上手にモード化した。だから売れる。
アジェンダ、イニシアティブ、インセンティブ、ソリューション、リテラシー、エビデンス、ダイバーシティ、ワークシェアリング、モチベーション、サステナビリティ、コミットメント、ビットコイン、ブロックチェーン、フィンテック…ようわからん、なんのこっちゃ、どうもすっきりしない。私の頭が悪いのかなぁ…。いやちがう、コードをコードのまま伝えようとする。コード(本質)は暗号化されているので、暗号化されたコードのままなので伝わらない、理解できない。コード(暗号)を読み解いて、モード(様式・方法論)化されていない。だから伝わらない、共感されない。
売れているもの、すごいなと思うもの、過去からつづいているものは、物事のコード(本質)の暗号を読み解き、伝わるよう理解されるようモード化されている。売れているものには、意味がある。売れていないものには、意味がある。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 10月18日掲載分〕