東京では渋谷、大阪は道頓堀。道頓堀の戎橋から100名以上が10月31日に川に飛び込んだ。いつもならUSJのなかにいるようなアニメキャラ、ゲームの主人公、制服姿、ゾンビたちが道頓堀をジャックした。この日のために準備をしてそれになりきる人、目立ちたい人、それを見に来る人、写真を撮られる人、写真を撮る人、たまたまいた人、囃したてる人、見守る人、注意する人で、ごった返していた。このとき、なにかが起こったらどうなるのだろう、みんなどういう行動をとるのだろうかといつも感じる。
東日本大震災が発生した日の東京の混乱を思い出す。今年に入っても9月10日の台風24号のときに、関東は混乱した。10月19日の山陽新幹線姫路駅での人身事故で、東の東京駅も名古屋駅も、新大阪駅も、西の博多駅も混雑した。東京から博多まですべての区間で新幹線がとまって、48,500人に影響した。地震、台風だけではない。たとえば群馬でおこった事故で、都心の東海道線がとまってしまうというようなことが、この10年増えている。
かつて東京駅はターミナル駅だった。発着駅であり、終着駅であった。乗り換える駅であった。それを東京駅、上野駅を経由し、宇都宮線、常磐線、東海道線を直通にした。他にもいろいろな線をつないだ。利用者にとってはとても便利になり、企業にとっては効率化となりコストダウンとなった。
各線がつながっていなければ、運転手、車掌さんは倍必要になる。当然コストが増える。それを一本につないだ。便利になったし、コストダウンにもなった。しかしどこか遠いところでおこったこと、あっちでおこったことがこっちで影響がでる。なぜ電車がとまったんだよ、どうなっているんだよと多くの人はイライラし、怒る人も出ている。
すべてをつないでいこうとしている。たとえば神戸から和歌山に行こうとしたら、大阪を抜けてそのまま神戸から和歌山までストレートに行けない。乗り換えなければならない。この乗り換えが不便とおもう人もいるが、乗り換えて目的地にたどりつく交通機関はJRも私鉄もあり、選択できる方が社会の仕組みとして「健全」である部分もある。大阪の場合でいえば、JRに地下鉄に阪急、阪神、京阪、南海、近鉄が並走している区間が多い。A地点からB地点に行くのにストレートに行けなくて乗り換えなければならないのは不便、非効率にもおもえるかもしれないが、複数ルートがあること、リタンダンシー(冗長性、多重性)は社会において重要である。それは効率性、利便性とは相克するように頭で考えるが、体感的にはそれぞれが相生するように感じる。
交通混雑の「縮図」の風景を有楽町線にみる。豊洲駅からの上り、都心に戻る方面の夕方17〜19時の混雑に驚かされる。その時間帯で地震がおこったら、どうなるのだろう。他への振り替えが少ない。あたかも蜘蛛の糸にみんなが群がり、蜘蛛の糸がぷちんと切れ、混乱するというイメージを想起する。それは東日本大震災、熊本地震で物流、サプライチェーンが混乱し、商業現場や工場の生産に影響したことと同じ構造である。
技術の進展に伴って利便性・効率性の追求で、いろいろなボトルネックが解消されていく。しかし「乗り換え」「振り替え」「溜まり」「休憩場所」がなくなったことで、もしもの時への対応力がおちる。様々なフィールドで健全なボトルネック、不便さ、「遊び」がなくなった。急激な力が入るのを防ぐため部品の結合にゆとりをもたすことを「遊び」というが、「ハンドルの遊び」のようなもの、場が社会や地域や企業や生活からどんどんなくなっている。なにかとなにかをつなぐ「遊び」がなくなっている。
教育もそう。日本ではプログラミング教育が導入されているが、世界の流れはSTEM教育にArtを織り込んだSTEAM教育にシフトしている。
効率性を追求しつづけている日本。社会にとって「遊び」はどこに行ったのか。健全な「遊び」を今こそとり戻すべきではないだろうか。ただし道頓堀川に飛びこまないように、ほどほどに。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 11月2日掲載分〕