新しい巨大なビルが建つと、大量の「昼めし難民」が街に出現する。
20〜30年前までのビルには社員食堂があったが、事業採算性から社員食堂を設けない企業が増えた。昼めし難民は、早ければ11時にあらわれ13時まで街をさまよう。社員食堂ならば毎日メニューを変えてもらえるが、外食となると毎日カレー、毎日ラーメンではあきる。だから日々昼めし場所を求めて放浪し、街の各所に行列ができる。
需要に対して供給が圧倒的に足りない。
「街の回遊性」を高めることが活性化につながるなどと「都市計画者」はいうが、近年度がすぎると感じる。今日はどこに行こうか、何を食べようか、早く行かないと行列になる、スタートにおくれると、昼の休憩時間が昼めしの場所を探して並んで食べることで終わってしまうこともある ─ 「昼めし」が仕事のなかで大きなウェイトを占めている人すらあらわれる。こうなると当然のことながら、生産性はおちる。働き方改革どころではない。本来のランチする意味が変わる。
大量の昼めし難民が出現することはオフィス街として正常なのだろうか。そもそも、このプランをたてた人はなにを考えてプランをたてたのか?実態を踏まえて考えているとは思えない。かつてはこれをすると、こうなるだろうことが判ってプランをたてていただろうが、次第に自分中心に考えて計画するようになり、ついには実態と乖離した計画をするようになる。それをすると、どうなるのかをリアルにイメージできるという「想像力」が弱まり、大量の昼めし難民が街にあらわれる。
オフィスや工場のなかでも、今までは考えられないミスが頻繁におこる。
いったん送られてきたものが間違いだといって、再送付されてくることがある。自分のものではないものが知らないところから送られてくることがある。あきらかに計算ミスのもの、起承転結のない文章が送られてくることがある。 ─ たとえば家で手書きしていた年賀状をパソコンでクリックしてうち出して発送して宛先不明で返ってくるというようなことが、オフィスや工場のいたるところでおこる。
「確認」というプロセスを怠るようになったのだ。
機械は早いし便利であり効率的であり綺麗であり、とても「有能」である。しかし機械は決して万能ではない。機械にその仕事をやらせるということは、自分がその仕事をこなせることが前提である。自分がその仕事の手順の全体が判り、確実におこなうことができるから、どの部分をどうチェックしたらいいのかの勘所が分かる。それが今はちがっている。自分がやれないことを機械にやらせている。いや、やってもらっているのだ。
だから今まででは考えられないようなミスがおこる。機械がわるいのではない。機械に仕事をお願いする人が仕事をわかっていないから。機械に「指示」してアウトプットだけを待つ、プロセスの途中がどうなっているのかに関心がなくなり、判らなくなり、ブラックボックス化する。だから、とんでもないミスがおこる。仕事のプロセスを学ぶという基本を怠り、無視するから、ミスがおこる。仕事の全体の流れがわからなくなった人が多くなった。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 12月14日掲載分〕