自転車は○(まる)である。
車輪もベアリングも○。なんでもかんでも○。自転車に乗った仲間が揃えば、丸く並ぶ。仲間のことをサークルというが、これも○、円。人が集まって円になって、輪となって、和がうまれ、縁(えん)になる。
日本社会の基本構造は「○(まる)」。
古来日本の家族は火を囲んで、円になって食事をした。キャンプファイヤーは丸くなって火をかこむ。盆踊りも、櫓のまわりをぐるぐると踊る。1982年に森田芳光監督の松田優作主演の「家族ゲーム」の横一直線の食卓風景は衝撃的だったが、それまでの家の食卓は円卓、卓袱台が多かった。○(まる)、円は全員が等間隔に位置するので、誰かの話を全員が共有できた。この等間隔の位置関係をつくりだす○(まる)、円(えん)は日本の社会構造の本質であり、人と人の輪(わ)と縁(えん)と地域の一体感を育んだ。日本は○がなくなりつつある。
なぜ日本人はBicycleを自転車と翻訳したのだろうか。
一輪車、三輪車というから「二輪車」でもよかっただろうし、動く車から自「動」車でもよかったのに、なぜ自「転」車となったのだろうが、私はこう思う。自転車の転は「ころがす」という意味、動くではなく転(ころ)がすこと。そもそも自転車は自由自在である。自分の望んでいるところに転がっていける。転がることで、風景を視たり、音を聴いたり、風を受けたり、においを感じたりできる。それも自分のペースで、「五感」が刺激され、磨かれる。
86歳の母は、今でも自転車に乗れることを自慢する。
よぼよぼになって、体が動かなくなるまで、自転車に乗りたいと考えている。自分で、自由に、自分の行きたいところに行けることが自らの尊厳の基本。自転車が乗れなかったら、ちょっとしたところに行くのでも、息子や娘にお願いして自動車に乗せてもらわないといけない。そうすると行動が「制約」されるし、気を使う。しかし自転車だったら、自分で行きたいところに行ける。この用事がすんだら行こうかと、自分で計画もできる。スーパーでたまたま会った友だちと自転車のサドルをもって立ち話もできる。
自転車で、いろいろなところに行ったり来たりできる。
いろいろなこと、人に出会う。多様な情報が四方八方から入り、五感が磨かれる。視たもの、聴こえたもの、感じたものが刷りこまれていく。人力だから、自分がとまりたいところでとまれる。A地点からB地点に行くときに、途中でC地点にもD地点にも寄り道ができるのは自転車ならではのこと。自動車はスピードが速いから物事を考える暇もないが、自転車は自分のペースで、いろいろなことを味わいながら、感じながら、考えながら転(ころ)がせる。
走るだけでなく、自転車をおして、歩く姿も絵になる。
のんびり行きたいときは自転車をひいて歩く。歩いている相手のペースにあわせて、自転車をおして歩く。小さな子どもと歩くお母さんが自転車をおりて、ひいている二人の姿は微笑ましい。デートしているカップルが自転車をおして歩いている姿も美しい。早く走ることができる自転車という道具をもちながら、あえて二人で歩くことにも意味がある。乗る、走る、おりる、おせると、自転車でいろいろなもの、姿になりうる。急ぐときはスピードが出せ、ゆっくりしたいときはゆっくり走れるし、おして歩けもする。こんな道具はそんなにない。
自転車は人間的な道具である。
多くの機械、道具は使う人間の行動スタイルを変えなければ使えない。しかし自転車は使う人が主役。人が自転車を自由自在に使える。自転車は人間がつくりだした「道具」のなかで大きく、人間寄り。自転車は○(まる)。自転車でA地点からB地点に移動するだけの道具ではない。極めて人間的な道具。世界各国の「自転車への回帰」は、自転車の本来性、自転車文化がとり戻されているかもしれない。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 2月20日掲載分〕