文化10(1813)年、薬種問屋が集積した大坂道修町の町会所で、宴席がおこなわれた。幕府の長崎奉行関係者に接待料理が出された。一人で食べきれるのかというぐらいの「本膳料理」が並ぶ。江戸時代の料理人の献立を読みとり現代に再現した料理人は「季節の食材を活かした絶妙のバランスのとれたおもてなし料理だった」と語った。
お客さまを訪ねるのに、手ぶらで行くのは「不祝儀」だと思ってしまう。なにをお渡ししたら喜んでもらえるのかと、一所懸命に、お土産のことを考える。その想いに応えるお店が発達した。相手に御礼を伝える、喜びを伝えるというのが「儀」。「いや〜、わたしの想いをうけとってください」とお土産を手渡す。想いをつつむ包装紙や風呂敷や祝儀袋はこうして生まれた。それは海外にはない。茶の湯で出される茶菓子も本来いらないもの。しかし茶菓子には主人の想いという「意味」が込められる。だから客人はありがたく食べる。
武家が多かった江戸の義(仁義、義理)の文化に対して、町人が多かった上方が生み出したのが「儀」。儀とは高度かつシンプルにデザインされた「おもてなし」の作法であり、流儀であった。行儀、儀礼、祝儀など「儀」という漢字が使われる。先日サウジの副皇太子が陛下に面会されて、世界に絶賛された日本的な美であるシンプルでバランスのとれた「ミニマリズム」にも通じるが、これは突然うまれたわけではない。
料理を例に考える。飛鳥・平城時代の神饌料理の流れをくんだ平安時代の儀式用の「大饗(おおあえ)料理」と禅宗とともに入ってきた寺院の「精進料理」をミックスしたのが武家のもてなし料理「本膳料理」。半日間、場合によれば夜どおし「おもてなし」がおこなわれることもあった。料理と料理の間に能や狂言などがおこなわれることもあった。能や狂言などの芸能はこうして発達する。しかしながら、もてなす側ともてなされる側も、気力、体力、なによりも思いやりが必要だったろう。これが主人と客人との「おもてなし」の基本構造である。
そこに、さらに日本的な「おもてなし」が生まれる。貿易・自由都市・堺の商人であり茶人であった千利休が、茶の湯の「侘び」「寂び」の心と、自然の恵みである食材への感謝をベースとした懐石料理という最高峰の「和食」をデザインした。千利休から400年、現代につながる。
「デザイン」にはカタチを作るという意味と、目標を達成するための計画をたてるという意味があるが、もうひとつ大切なことがある。デザインには目に見える「物質的デザイン」と、目に見えない「精神的(意味の)デザイン」がある。つい表面的な「デザイン」に目をとらわれがちであるが、「意味」が込められた「精神的デザイン」に注目することが必要である。
千利休は茶の世界に、料理のみならず、器、部屋、床飾り、庭、佇まい、さらにもてなす側ともてなされる側が互いに入れ替わることができるという「賓主互換」、相手を思いやるという「精神的なデザイン」を時空間に込めた。
千利休は茶道の世界にとどまらず、日本の住まい、住生活、料理というフィールドに革命をおこし、現代に脈々とつながる「日本的な美」を内包した「おもてなし」文化をデザインした。摂津国、河内国、和泉国の「堺(さかい)」という交通の要衝地・貿易港であった堺で、どのように生まれ、育ったかを、世界から日本の「ソフトパワー」が注目されている今、学ぶべきではないだろうか?観光とは物見遊山だけでなく、現地に行って、なぜそれが生まれたのか、なぜその人がそこに生まれたのかという文脈・背景・コンテクストをつかむ旅でもある。
「堺」の記事を読みながら、日本のおもてなし文化のデザイナーのひとり「千利休」がどうして堺から生まれたのかを、訪日外国人にきちんと伝えられるのかどうかが気になった。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 9月6日掲載分〕