日本に「気」が蔓延して、「心」がしぼむ。いま世の中でおこっている出来事の多くが「気」で、「心」がついていっていない。「心ないな」という事象を見聞きする。
「気は心」という言葉がある。
「私の気持ちです」といって、贈り物をする。ものの価値ではなく、「私の気持ち」を受けとってくださいという意味で昔はよくつかっていたが、最近あまり使わなくなった。
「気」は不思議な漢字。
気という字源は気体、水蒸気。発散しやすいもの、実体がつかめないもの、実態が見えないもの、ころころ変わってしまうもの、なくなってしまうもの、消えてしまうもの、集めておけないというのが「気」という漢字の意味。
「気」がつく言葉は沢山ある。
「気持ちのいいことをいうねぇ。今日の気分はどう?あの子は気が強い。そのことが気になる。あの子は気立てがよくてね。突然、気が変わった。もっと気を配れよ。気持ちが大事だ、気持ちが。それ、正気なの?空気が読めない人だね」といろいろある。最近、世の中、そんな「気」ばかりだ。
「気のない返事」と「心のない返事」では、意味がちがう。
「気配」」と「心配」、「気持ち」と「心持ち」はちがう。「気をひく」と「心をひく」もちがう。気分とはいうが、心分とはいわない。気分屋というが、心分屋とはいわない。なぜなら心分というような状態はおこらないからだ。気と心が混同されている。気と心の関係がわからなくなっている。
世の中、「気」だらけ。
雰囲気を察知して、空気を読み、気配りをして、気のきいたことをするという「パフォーマンス」の時代。瞬間瞬間に即応するパフォーマンスが多い。ボケとツッコミのように、なにかをいわれたら、すぐに対応する。その即応がしゃれていると、シャープだといわれたり、頭がいいといわれる。パフォーマンスは人を喜ばせるためのものであり、人気を得ようとするもの。人気は永続きはしない。しかし「気」は実体がなく、つかめない。見えないもの、暫定的なもの。
気は軽く、すぐになくなってしまう、ころころ変わってしまう、消えてしまう。「気」にまぎれて、「心」がおきざりになっている。本来、人に心を配る、心に寄り添うのが日本だった。「気は心」ではない。「気は心から発するもの」ではないかと思う。
「心変わり」というが、本来、心は変わらないもの。
むしろ、気が変わったというほうが正しい。「三つ子の魂百まで」というが、子どもがちいさいころから、世の中の大人たちの言動が子どもの心に左右する。大人が心にこだわらないといけない。「日本人の心」というが、「日本人の気」とはいわない。インバウンド戦略で「もてなしの心」というが、実態は「もてなしの気」となっているのではないだろうか。もてなしが形、スタイルになっているのではないだろうか。相手を気分よくするという「気」という様式になっているのではないだろうか。本当に、気になる。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 2月25日掲載分〕