繰り返し報道される昨年7月の西日本豪雨の映像に印象的なシーンがある。豪雨がまちを襲い、家が水没した。おばあさんが逃げ遅れた。そこに「おばあちゃん、大丈夫?」と声をかけて、近所の人がボートにのって助けにいくという映像。平時は声をかけることはないが、有事だから声をかけあう。「地域コミュニティの美談」だと紹介される。
しかし独居のおばあさんには、息子・娘がいる。本来息子・娘が自分の親を助けにいくべきなのに、遠いところに住んでいるといっていけない。緊急事態だから、その地域に住んでいるからといって、近所の人が助けにいくというのは、本来、筋がちがう。
自分の親の遺産や金目のものは遠隔地にいる息子・娘たちが「相続」するが、おばあさんに日常的な危機があると、地域の人が「負担」する。昔から地域で「講」とか「結い」などをつくって助けあってきたから、助けるのは当然だ、「地域で助け合うものだ」という権利を主張して、自らは「負担」しようとしない人たちがいる。GIVE & TAKEであるべきなのに、TAKE & TAKEになる。もしくはGIVE & GIVEとなる。このように、日本は権利と負担がアンバランスな国となった。こんな価値観は、世界では通用しない。
「コミュニティ(community)」という横文字が「まちづくり」の文脈で、日本で使われだしたのは、決して古くない。しかし本来とはちがう意味で使われがちである。そもそもcommunは“共有、共通、共同”が言葉の由来。つまりコミュニティとは互助、共同負担のこと、自分のことも他人の問題でもあるということ、他人のことも自分の問題でもあるということ。だからおばあさんが溺れているところをみて、「お互いさま」だから、助けに行こうとするのが「コミュニティ」の中核。
自分が困ったら助けてもらうという「予約」のもとに、地域の人々が困っていたら助けるのがコミュニティ。強制的にだれかに言われるからするのではなく、「お互いさま」だから助けに行く。自分になにかあったら、みんなが助けに来てくれる─そんな「お互いさま」が消えつつある。負担と受益のアンバランスが著しく、暴走している。要求して利用したいが、負担はしない。自分は負担しないけど、権利として受益はする。本来自分がやるべきことを他人に分担させる。日本のぬるさは、ここにもある。
日本ではソサエティ(society)とコミュニティ(community)が混同されている。話しあったり声をかけあったりすることは「society」。では職場はソサエティなのかコミュニティのどちらだろうか。一人一人の機能、分限、役割が決まっているので、職場は「ソサエティ」であり、職場は「コミュニティ」ではない。にもかかわらず、まちづくりの人たちはあるべき地域の姿を「職場のチームワーク」のような感覚をイメージしたり、まちづくり「会社」をつくったりする。コミュニティとソサエティを混同している。
インターネットでつながる「SNS」は、ソーシャルネットワーク。
SNSでつながっているのは「コミュニティ」ではなく、「ソサエティ」である。コミュニケーションとかぶるので判りにくくしているが、SNSは社会性、関係性からソーシャルをつなぐネットワークである。にもかかわらず、SNSを「コミュニティ」と勘違いをしている人が多い。
コミュニティには役割分担がある。相手になにかの役割を果たすことを求める。自分がおこなうべき役務を自分だけでするのではなく、だれかにも手伝ってもらうのが「コミュニティ」。だから溺れているおばあさんを船で助けにいくというのが「コミュニティ」であるが、問題は権利と負担とがアンバランスになっている。負担するからこそ、権利が主張できる。本来のコミュニティとは、「お互いさま」が本質であるが、今の日本には自分の「分」を果たさない人が多い。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 3月19日掲載分〕