とても凄まじい姿に見える。
大学の卒業式の会場が足りなくなった。卒業生に加えて、卒業生の両親だけでなく、祖父母も来られる。大学内ではおさまらなくなり、大学外で卒業式を開く学校もある。卒業生1人に、付き添いが6人のときもある。そりゃ、スペースが足りなくなるはず。大学の入学式も同じく、両親・祖父母がついて来る。とりわけその大学が親たちの母校となると、よけい盛りあがる。かつては親が入学式、卒業式に来るのは、高校生までだった、いや中学校の卒業式ですら、親は来なかった。就活や企業の入社式にも来られる親もあらわれた。海外の人がその姿を見たら、奇異に映る。その姿をみて、「子離れ、親離れできない」と評論する人もいるが、そんなステレオタイプだけでは説明しきれない。
「一億総中流社会」
という言葉が高度経済成長の末期ごろから、自らのことを「中流」と思うようになった。戦後ベビーブーマーという圧倒的人口である団塊の世代間での圧倒的競争がおこった。その競争の結果、一部の成功者と圧倒的多数の「ほどほどの中流階級」が誕生した。ほどほどの学校、ほどほどの会社、ほどほどの収入、ほどほどの生活、ほどほどの家、ほどほどの余暇をエンジョイする。その団塊の世代の人たちが子どもをつくって、子どもたちに、「所詮、会社ってそんなものだ」「一所懸命頑張っても、人生って、所詮こんなものだ」と、自分が果たせなかったこと、自分が完全燃焼できなかった経験から、自分の子どもたちにネガティブな物語をする。そうすると、子どもたちは就職や結婚できなくなったりする。定職に就かない人、結婚できない人が増えている理由は「親」にもある。
結婚も凄まじい。
娘が「この人と結婚したい」といって、彼氏を連れてくる。父親は、娘が連れてきた彼を見て、「きっと裏があるはずだ」といって反対する。娘の結婚相手がどんな会社にいて、どんなことをやっているかを訊いて、「そういうヤツはお父さんの会社にどっさりいる。そいつはモノにならない」「その仕事はこれから厳しくなるので、大変だぞ」などと、ネガティブに諭したりする。
しかしモノにならなかったのは、「お父さん」であって、娘の彼ではない。
子どもの結婚に、親が良い悪いという決定権を握って、結婚に反対したり、彼、彼女のことをネガティブにいったりする。大人となった子どもがその人と一緒になりたいといっているのだから、結婚させてあげればいいのに、親は色々と難癖をつける。娘の結婚をダメにするのは父親、息子の結婚をダメにするのは母親ともいえる。
「結婚しなくてもいいんじゃない。ずっと家にいたらいいんだよ」
と、子どもにいう親。経済力がない子どもは、親といつまでも生活する。娘は母親といっしょに買い物にいく、食事にいく、旅行にいく。どこでもいっしょにいて、子どもに刷りこんでいく。
「本当は、お父さんのこと、嫌だったの。結婚は失敗だったわ」
という物語を子どもたちに刷りこんでいく母親。といっても、現実には、経済的な理由から別れない。団塊の世代が大量のライバルと熾烈な競争した経験で形成した“被害者意識”、“未達成の憤り”をそのままストレートに子どもたちに注入する。日々そんなことを刷りこまれつづけたら、子どもたちも変にもなるのは当たり前。それを次の代、その次の代と次々と繰り返されたら、それが「普通」になっていく。
「一所懸命がんばってきたけど、中程度、ほどほどでおわった。結果的に、オレたちは定年で放りだされた。都心から離れたところだけど、家をもった。しかし、なんの達成感もない人生だった。うまくやっているヤツには、必ず『裏』があるのだ」という社会観、企業観、人間観をもつ人たちが広がる。「一億総中流社会」はクレーム社会、クレーマー社会へと変化し、権威をひきずりおろそうとする動きをうんでいく。そして子どもたちの代、孫たちの代に、「ネガティブ」が増殖して、現代は「ネガティブ社会」となる。
この「ネガティブ社会」の基盤をなしているのは、「感謝」がないこと。日常的に褒めること、褒め称えること、「ありがとう」が社会から減り、不満、不平、不服、不承、愚痴、非礼、不遜、苦情が増えていく。しかしながら有り難いことをしてもらって、「ありがとう」と言って、いけないことはない。自分が「ありがたいな」と思ったら、感謝する。この「感謝する文化」を社会にとり戻さないと、大変なことになる。
(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 3月22日掲載分〕