この日曜日に、還暦を迎えて、明日、定年退職となる。
現代社会には60歳定年とか、65歳定年であったりするが、その年齢になったら「退職する」という制度である。そもそも「定年制度」とは今日働きに来ている人が明日来てくれるとは限らないといった雇用情勢だった戦前に、“この年齢まで会社にいて欲しい”ということでつくられた制度であった。このように時の流れで「定年」という意味・文脈は変わる。かつてつくった「制度」は時代によってあわなくなり、「適合不全」となる。しかし現代社会と制度・ルールとが「適合不全」になっていることに気がつかない人が意外に多い。
「みなさまのお陰で」「無事定年まで」「大過なく勤め上げることができました…」といったフレーズが定年の挨拶として飛び交う。「新たな気持ちで、頑張ります」としめくくる。
この「新し」はもともと「あらた・し」で「可惜し」であって、立派なもの、素晴らしいものが相応に扱われなくなって惜しいという意味だった。その「あらた・し」の、「ら」が「た」に変化し、「あたら・し」となり、新しい、もののはじめという意味の言葉に変わった。また「一所懸命」は“ひとつの土地を命を懸けて守る”という意味でつかわれていたが、“一生、命を懸けて守る”という「一生懸命」に変わった。このように、「言葉」も変わる。意味も背景も変わってしまうことがあるが、そのことに気がつかない人が多い。
大阪に1000年以上前に難波宮があったが、それがどこにあったのか、最近まで正確な場所は判らなかった。飛鳥宮もそう、平城京もそう、鎌倉幕府もそう。かつて日本の中心であったところであっても、その機能、役割が変われば、人々から忘れられてしまう。日本だけではない。世界でも同じ。「必然性」がなくなれば、場所だけでなく、人々の営みも、記憶も、大切な事柄もすべて消えてしまう。かつてあったものが「あたら(新ら)しい」ものに、切り替わるが、大切なことは「あらた(可惜)しい」ものまでが消え失せてしまうことである。
このように、人は過去を忘れてしまう。
平成があと1ヶ月で終わるので、平成を総括する記事が多いが、たとえば毎日座っている食卓の風景も、この30年で、このように劇的に変わる。
モノを食べるという「機能」は変わらない。一人でモノを食べることもあるが、食というものはだれかと一緒になにかを語りながら、食卓の場所で時間をすごす。従業員食堂もこの30年で大きく減った。従業員食堂は昼食をとるだけではない。従業員どうしの会話、コミュニケーションの場でもあった。食堂が減るということは、従業員の対話が減ったことでもある。
このように平成の30年で、食卓をとりまく空気、背景、文脈も大きく変わった。さらに食卓のお皿の料理を食べる前には、調理があり、市場があり、輸送があり、食材があり、農業・漁業の生産の場がある。これらが大きく変わり、食卓の風景を変える。これら食卓に向かう人と人の想い、つながり、食卓の構造、食材の流れ、空気の変化を理解していなければ、それこそ「適合不全」となる。
とりわけスマホ、インターネットが食卓を変えた。
食卓だけではない。技術が人々の生活、人と人との関係、教育、ライフスタイル、ビジネススタイルを変え、さらに時代速度は加速する。しかし変化の「構造」「背景」「文脈」をつかんでいないと、過去につくられた仕組み、感覚、制度、ルールがあわなくなり、「適合不全」となる。さらに「適合不全」になっていることに気づかず、無理やりあわそうとする「過剰適合」する人もあらわれる。現代はそんな時代である。
現代社会は「適合不全」がおこっているということを受け入れたうえで、「どうなっているのか」「なぜそうなっているのか」「どうなろうとしているのか」という変化のメカニズム、構造、背景、文脈を問いつづけることが今まで以上に求められていると、定年を前に、つくづく感じる。
自らの会社生活の流れをぼんやりと考えながら、明日定年退職する。とはいうものの、来週からも同じ職場に来て、社会の変化を見つめてCOMEMOを書こうと思う。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 3月28日掲載分〕