平成から令和になった。10連休にマスコミ、新聞、雑誌、ネットでは、平成の30年はどんな時代だったのかの振り返りと、令和時代はどうなるのか?なにを期待するのか?という特集が多かった。「人口減少」「高齢」「少子化」「スマホ、AI」「グローバル」「インバウンド」「格差」といったワードが飛び交うが、ごちゃごちゃと複雑で、なにかよくわからない。
「文化」という言葉もよくでてくる。この言葉も、「伝統芸能・美術」とごちゃごちゃになって、わかるようでわかりにくい。文化は Cultivateが語源で、土地を耕し、種を蒔き、水・養分を与えて、育て収穫し、良い種をとって、また蒔く…その繰り返しがもともとの語源。つまり文化とは耕作・栽培、派生して醸成・洗練を意味し、先人の技の本質を承継して「あるもの」を、ある一定の品質以上に、代々つくりつづける方法論と私は考えている。
その「文化」が弱まっている。文化はどのように生まれ育てられるかは、「風土−感性−文化」という関係性で考える。人は日々無意識に繰り返し繰り返し、身を置く「場」のなかで、「感性」が刷りこまれ鍛えられる。このプロセスから「文化」がうまれ、磨かれる。人もそう、組織もそう、まちもそう、ものづくりもそう。
自然やインフラや技術開発や制度や人口構造の変化によって、「風土」が変われば、日常的に接する感性が変わり、文化が変わる。このプロセスのなかで、「感性」が大事。ライフスタイル、ビジネススタイル、ソーシャルスタイルという方法論が磨かれ、劣化したりする。この「感性」が弱まると、過去から現在、未来に流れるモノ・コト、外と内でうまれるモノ・コトの「本質」が読み解けず、様式・方法論へと翻訳・編集する「文化力」が効かなくなり、結果としてコードをモードに転換できなくなる。そしてコードがコードのままに受け入れようとするから、意味がわからなくなる。これがモノづくり、まちづくり、企業、教育の課題である。そんななかこれからどうなっていくのだろう。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 5月7日掲載分改〕