謎のストリートアーティスト「バンクシー」が日本の街中の壁などに「ネズミ」を描いたかも?と、すこし前に話題になったが、最近聞かなくなった。バンクシー本人が描いたものかもしれないけれど、そうではないかもしれない。まちなかの壁や階段に描かれたネズミや女の子をバンクシーが描いたら「アート」となり、無名の人が描いたら「落書き」といわれるかもしれない。このアートと落書きの差はなにか。アートだと思う人にとったらアート、落書きだと思う人にとったら落書きとなるのだろうか。
かつて一世を風靡した歌手がコンサートを開いてステージに立つが、声がでない、音程がずれて聞こえる。「過去の××」という形容詞がつかなかったり、その歌手の過去のことを知らない人にとったら、なぜこんな下手な人が舞台に立っているのだろうかと思うだろう。にもかかわらずコンサート会場に足をはこんだり、テレビを視たりするのは、その歌手を熱狂的に追っかけていた時代の「かつての自分」を懐古するためだろうか。
ヨーロッパはアートに厳しい。いくら大家であっても、たとえばピカソが描いたとしても、自らの目で観て、「これはよくない」と思ったら「手を抜きすぎだ」とはっきりと評価する。日本はそうではない。その絵をゴッホが描いたと聞くと、なんでもかんでも「ゴッホはすごい」といい、高校生が描いたと聞いて観たら、「なんやこれ。ようわからへんなぁ」となる。同じ絵なのに、誰が描いたかによって、評価が一変する。このちがいはなんだろう。
ものづくり、まちづくりで、これがトレンドだ、流行っているからと、その時々の最先端のものを取り込むが、あっという間に古めかしく見えてしまうことがある。大阪城や旧江戸城などの掘は数百年前につくられたけれども、今も「美しい」と感じる。このちがいはなんだろう。
最近のトレンドは「100年後を考える」だとか「持続可能性」とかをうたい文句にしているが、そのプランをたてる人、つくる人はすぐに「評価」を求める。かつてのものづくりはボクはこれがいいとかワタシはこの方がいいとか、ワイワイいって決めていたが、物事を決めつくりあげるプロセスが変わってきている。
「評価」の時代となった。プランナーとかプロデューサー、コンサルといわれる人は自分がそれにかかわるプロジェクト期間内で認められようと、「今いいといわれている」という評価を第一にしてつくろうとする。だから“100年後を考える”といっても、「最近の価値観」に依存するから、おかしくなる。自分が関与している間に、「自分がいかに評価されるか」という観点で近視眼的に取り組み、自意識過剰、暴走することになり、すぐに消えてしまう時代となった。
大阪城や姫路城をつくった人がだれなのかは、数百年後の現代の人は殆ど知らない。「私」がデザインしたからすごいものになったと、自分のことをアピールするのではなく、良いモノをつくりたい、まちをよくしたいと思っているかどうかが本当は大切である。現代だけでなく、10年後、20年後、100年後にもつづいているかという時間軸をもっているかどうかである。商品のライフサイクルが短くなったというが、このモノづくりの変化が背景のひとつ。
長つづきするモノ、マチと、すぐになくなるモノ、マチがある。
モノ、マチは人がそれを使うものであり、ずっとすごす、くらす場である。にもかかわらず、使う人にとっての「機能」をおざなりにしたモノ、マチをつくろうとするのは危険。「機能」に軸足をおいたものは、美しく、質感があり、人々に支持されてずっと長つづきする。機能的にそれが必要なのかという視点をおざなりにした、「本質」を外した流行りものの物真似や自意識・価値観の暴走では、すぐにモノ、マチは消えてしまう。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 6月21日掲載分〕