“もうあかんで。このままでは、どないしようもない。ボロボロや。なんとかせえへんかったらあかん”、とソトからは見えるが、ウチからは見えないことがある。ウチにいたら見えにくいというが、本当は見えるのに見ない振り、気づかない振り、分からない振りをしているうちに、見えなくなる。
ソトのひとから指摘されても、ウチのひとたちは、なぜ変えなければ、変わらなければいけないのかが理解できない。なんのためにそうしなければいけないかが分からない企業、人が多いのはなぜか。
会社を「存続する」という最も大切なことを忘れてしまっている。自らの会社を存続させるという「文化」を社員の価値観として共有できない会社は、自滅することになる。
自分の会社のことを悪く言うひとはそうそういなかったが、自分の会社のことを悪く言う人が目につくようになった。ソトのひとから指摘されると、同じように同調して、自社の悪口を言う。
会社を存続するという「文化」が弱くなった。その本質はお客さまがわからなくなったということ。お客さまがわからないことと、わかりにくいとでは違う。「1と0(ゼロ)」くらい違う。わからないは0(ゼロ)、わかりにくいというのは1で「ゼロ」ではない。全然違う。会社をなんとしてでも存続させなければ、とおもわなくなった。よって会社はあっという間に無くなる。長く続いた会社も無くなる。それぞれの会社文化が消える。
かつてのニュータウンもそう。「シルバータウン」となったまちのなにが問題かというと、若い世代が定着しないということ。まちの承継がうまくいかなかったこと。
かつてのニュータウンはおじいさん、おばあさんばかりになり、若い人は出ていく。それが問題だとプランナーは言うが、ではどうしてそうならないまちをプランニングしなかったのか、プランニングできなかったのはなぜか?
「まちが栄える」という観念ができていなかったからだ。「まちが栄える」とはどういう姿なのかをプランナーは思い浮かべなかった。
かつてのニュータウンは「サラリーマンライフ」をイメージした。道は広く綺麗で、街路樹は美しく、戸建て住宅はスマートな間取りで、サラリーマンライフの理想とする姿だったが、「まち」が理想とする姿ではなかった。
「まち」が理想とする姿とは、世代が承継ができているまち。子たちが集まって遊び楽しそうに笑い、両親や祖父母はそんな子ども、孫たちを見守る。街路樹に花が咲いていなくてもいい、こじゃれたカフェがなくてもいい。多世代がいっしょにいるまちにありつづけたかったが、そうならなかった。
では、なぜそんなシルバータウンをつくってしまったのか。40年前・50年前にそのまちをプランニングした人が育った故郷には、気がきいた喫茶店も、恋を語るような素敵な通りもなかった。サラリーマンの棲家としてのニュータウンを考えたときに、花があったらいいね、緑もあったらいいねと、自分がかなわなかった夢のライフをニュータウンで実現しようとした。しかしサラリーマンの夢はあっという間に消え、親から子ども、孫へとまちは繋がらなかった。だからライフが再生産できず、世代が承継されないまちとなってしまった。
ショッピングセンターをつくり、こじゃれた物販、レストランも作ったが、スーパーは撤退しコンビニとなり、こじゃれた店はなくなり理容店になった。再生産できない巨大な廃墟となってしまった。
先代から次の代に引き継ぐ「生業」がまちから減り、生活と職業にズレが生じた。サラリーマンは、息子・娘に引き継ぐものは家しかない。農家だったり、商家であったり、職人だったら、地域でのものづくりの「文化」という方法論を引継いだ。親から承継するものがなければ、息子・娘は出て行かざるを得ない。こうしてまちは消える。まちづくり、まちのプランナーに欠けていたのは、「まちは栄え、承継しつづけなければならない」という文化であった。
かつてのまちと、ニュータウンの差はまさにこれ。まちを存続するために承継されてきた知恵と仕組みをまちのみんなで考え、それぞれの役割ごとに動くかどうかの違いではないだろうか。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 7月17日掲載分〕