“これからの新しい産業はなに”という議論がよくおこなわれるが、いつも違和感を覚える。会議室に集まって、“さあ、これからの日本において重要な新しい産業はなにかを考えよう”といわれても、なにもないところから、必然がないものからは、なにもうまれない。新産業をアナロジーで考えると、新産業は“サークル”のようなもの。古くある部活の陸上部とか野球部とか相撲部・柔道部・剣道部は伝統的な産業のイメージ。一方、フェンシングや自転車のようにしばしばマスコミに取り上げられるスポーツは新しい産業のイメ―ジ。またダンスや新体操やボルタリングやカーリングなど、チョコチョコと報道されるスポーツは同好会・サークルだったりするが、これらは新産業の卵だといえる。このように部活で産業のカタチを考えると、見えてくることがある。
オリンピックを例に考える。オリンピックは絶え間なく変化しつづけている。当初の近代オリンピックは万国博覧会の余興だったし、聖火リレーは1936年のベルリンオリンピックから始まったし、今やオリンピックの代名詞ともなった金・銀・銅のメダルは、もともとは万国博覧会で競われた職人・企業の優秀者に与えられた表彰様式から広がったものだが、なによりもオリンピック競技種目が変わりつづけている。このオリンピック競技種目の変化に「違和感」を覚える人々がいる。とりわけ年輩者たちにとって、オリンピック種目といえば「体操とか柔道とか水泳」である。そこに新体操、スポーツクライミング、スケートボード、サーフィンなどが、冬のオリンピックではスノーボード、ハーフパイプなどが新しいオリンピック種目となり、日本の若者たちが活躍したりする。それに対して、日本人は「違和感」を覚える。
この「違和感」こそが、現代日本社会の課題である。スポーツクライミングもスケートボードも日本人の感覚では珍しいかもしれないが、それぞれの世界のスポーツ人口ではソフトボールのそれよりも多く、メジャーである。しかし、日本人は「えっ、それって、スポーツなの?遊びじゃないの?」と反応してしまう。
体育会の部活会議とか連絡会が学校のなかでおこなわれるが、たいてい古い部活の人が役員となり会議の中心に座る。新しく部になったところは末席に座り、同好会やサークルは会議すら呼んでもらえなかったりする。部活動の「序列」とか「スクールカースト」といったように暗黙のルールとして存在したりするが、「チャラい」と思っていた新しい部がすごい対外成績を残したり、観客を集めたり、部員も多く集めたりする。それにもかかわらず、「新しい」ということで、下に見る、侮る。なおかつ将棋部や囲碁部など文化系も同じ「部」なのに、ブラバン以外は体育系よりも下に見られる。
そもそもスポーツに貴賤はない。柔道とレスリング部のどっちがどうとかという議論に意味はない。むしろレスリング人口と相撲人口はどっちが多いのか、観客動員数はどうなのかをみたら、世界的には野球や剣道のほうがはるかにマイナースポーツ。それなのに、マイナーなものを「伝統的なもの」だからといって大事にしたり、そのスポーツよりも圧倒的に競技人口の多い新しいスポーツが軽んじられることが往々にしてある。ボルタリングの世界人口がどれだけ多いかを知らずに、“それって、オリンピック種目なの?”というのは失礼であり、“ラグビーなんて…”と思っていた人も、先週からの「ラグビーワールドカップ」を観に来られる世界からのファンの数に驚いているだろう。
「産業」を部活やサークルでたとえると、その産業が“重々しい”とか“伝統がある”からあるからと捉えるではなく、「その産業に、今、どれだけの人が参加し、かかわっているのか」が本当の「評価」ではないか。大切なのはその産業がうみだすモノ、コト、サービスを支持している人がどれだけいるのか、その産業でどれだけの人が働いているのかである。主要産業といわれる鉄鋼産業やエネルギ―産業と比べて、コンビニエンス産業や福祉産業やアニメ産業やスポーツ産業にかかわっている人がどれくらいおられるのかで考えるべきである。その産業にかかわる人が多いということは、新たに雇用をうみだしていることであり、お客さまに選択・支持されて、売り上げをあげていることであり、そこで働き、給料をもらって、税金を納めているということである。
これからの産業を考えるうえで大切なことは、たくさんの人が「参加」している企業なり、産業を尊重すべきだということ。にもかかわらず新しくでてきた企業や産業を「下」にみたり、チャラチャラしているとか、今までとちがうとか、ちゃんとしていないとか、訳がわからんとかいったりしていないだろうか。
産業界の会議に古い会社の人たちが中心に並ぶ。その姿は学校の体育会の会議の「写し絵」でもある。陸上部や相撲部や柔道部が中心に並ぶが、いちばん末席に座る新しく部となったスケートボード部の部員がはるかに多かったりする。部員の数とか観客動員数とか対外成績順とかに並び替えたら、部活の「序列」はどうなるだろう。自分たちが大きな顔で、会議のまんなかにいる理由がなくなっているのに、大きな顔をしつづけているかもしれない。かつて日本の「産業政策」を学んだ国もそれが「発達阻害」だとやめたことで、自由に大きく伸びている。「これからの産業はどうなるか」と漫然と空論する前に、「部活動」の状況と照らして、産業全体の現在の姿を見た方がいい。今、なにがおこっているのか、なにをしなければどうなるのかが見えてくると思う。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 9月24日掲載分〕