約50年前の東京オリンピックや大阪万博前後に人気のあった「巨人の星」「あしたのジョー」「柔道一直線」「アタックNo1」「サインはV」などスポ根(スポーツ根性)のマンガ、アニメは今、流行らない。主人公たちが目標に向かって、人並外れた努力をして、頑張る。チャレンジするが、失敗する。何度も何度もチャレンジするが、何度も何度も失敗する。それを乗り越え、努力に努力を重ね、夢を実現する。毎週テレビでそのアニメを視て、“等身大”の主人公のストラグルに感情移入する。努力すれば夢はきっと叶うという時代空気だった。今は、そのようなスポ根はウケない。コツコツと、地道に、悪戦苦闘、血のにじむ努力、苦難の末に、目標にたどりつくというサクセスストーリーはウケない。
企業もそう。失敗の連続だった。そもそも今ある大企業も最初から大きかったわけではない。なにからなにまで順調だったわけではない。何度も失敗し、トラブルがおき、倒産の危機があって、様々な失敗という経験を糧に、進んできた。繊維産業、電器産業、自動車産業、流通産業、ファッション産業…どの産業も、それが日常茶飯事だった。うまくいかないのが普通で、それを乗り超えてきた。それは、今も同じだが、そんなストラグルストーリーから目を避けたがる。
なぜそうなっていったのか。
失敗したら、トラブルがおこったら、うまくいかなかったら、「一巻の終わり」に思うようになった。努力しても、うまくいかないかもしれない。うまくいかなかったら、それまでの努力が無駄になる。だから努力が無駄にならない方法を選ぼうとする発想をするようになった。
「失敗」に対する受け止めが変わった。
失敗したら、もう後がない。うまくいかなかったら、自分の人生は終わりだ。「失敗」に対する受け止めがとても「悲観的」になった。失敗したら、苦しさや傷みに耐え、這いあがり、立て直さないといけない。それができない。それに我慢できない、面倒くさいと思うようになった。
「失敗観」はいつ変わったのか。
戦後の混乱、高度経済成長の競争時代を経て形成された、戦中世代・団塊の世代などを中心の「失敗観」に満ちあふれた人生体験が、子どもたち、孫たちに、「失敗しない」生き方を刷り込んだ。しかしその「失敗しない」生き方が失敗しない生き方とは限らない。さらに失敗した人や企業の例をあげて、あんなふうに失敗したくないと言って、無理をしなくなりトライしなくなった。それで、「なんでもムリ」という人をうんでいった。
「失敗」という言葉が日本社会で、絶望的な「マイナス」に扱われるようになった。
そもそも失敗という「言葉」である。 |
「私、失敗しないので」
というドラマ「ドクターX
〜外科医・大門未知子〜」の決めゼリフが10年前より流行る。「私、失敗しないので」は彼女の沢山の失敗・経験があるからこそのセリフだが、ドラマではその「試行錯誤」のシーンは殆んどでてこないから最初から天才外科医であるように思う人もいる。毎回の「失敗しない」外科医の“超然技巧”に感動し、「失敗しない」天才外科医に憧れる。
とにかく失敗に、ナーバスである。
最初からうまくいきたい。失敗したら、面倒くさい。失敗したら、大変なことになる、立ち直れないという先入観があるから、失敗したくないという行動をとる。
受験に失敗したら、惨め、重いものを人生に背負った気分になる。就職して仕事や人間関係がうまくいかなかったらどうしようかと悩む。“ベンチャーを立ちあげろ“と言われると、起業したら失敗するのではないかと考え、失敗したくないので流行りのモノ・コト・サービス・マーケティング手法に安易に飛びつく。
外国人は“起業
in
Japan(日本で見たり聴いたり感じたことをもとに、外国で起業する)”で、いろいろなことにチャレンジするが、日本人はそれに取り組んで“失敗したらどうなる?大変なことになる”と考えてしまうので、チャレンジしない。だからすごいモノ、面白いコト、画期的なものが、でてこなくなった。
どうしたらいいのか。
失敗をおそれるのではなく、”失敗は終わりではない”と思うこと。
失敗をおそれないというような「冒険」ではなく、”失敗をしても終わらない”と考えること。失敗したらすべてが終わるのではなく、失敗したら失敗からなにを学び、どうやり直すかである。失敗から転じて、なにをするかである。
「試行錯誤」が普通であって、最初からうまくいく、成功することなどなかなかない。大切なのは、失敗して「もうだめだ。おしまい」と考えるのではなく、「なぜ失敗したのか」を振り返り、考えなおして、もう一度試してみること。成功する、失敗する人の差は、この「試行錯誤」するかどうかである。USJも試行錯誤のすえ、今がある。みんな、試行錯誤している。失敗は終わりではない。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 2月19日掲載分〕