お茶をお客さまに出す。お茶碗をドンと置いても、そっと置いても、お茶を飲むことに変わりがないが、お茶の出し方にこだわった。「所作」であり、自分を表現した。他人の目よりも、自分自身がそれを気にする。
細い道を前から人が歩いてくる。向うがよける、こっちがよけるを考える前に、道を譲るという所作をしていたものから、相手が譲るべきか、こっちが譲るべきか言い争いしたりに発展する時代となった。所作の意識がない、自分を律せない人が多い。自動車のあおり運転もこれ。
雨のなか細い道で、前から傘をさす人と出会ったら、どうする。傘をさしている者同士がすれ違うと、傘があたる。そこで傘を外に向けて、すれちがった。それが自分として気持ちよかった。この意識に多くの日本人が共感したので、それが様式となり、「傘かしげ」という美しい言葉が江戸時代にうまれた。 |
この外できちんとするのは「作為」であるが、作為は見抜かれる。
作為とは“為をもってなす”こと。なんらかの目的をもってすることが作為。作為は代償を求める。
せっかく化粧したのに、せっかく髪を切ったのに、気づいてくれない。「せっかく髪を切ったのに…」となる。これが「作為」。せっかくプレゼントしてあげたのに、せっかく〇〇〇をしたのに…が作為。 |
「作為」社会である。
この大学に入ったのだから、この会社に入ったのだから、こうなって当たり前、こうなるはずだと考えるようになった。約束型社会と信じた。作為に対する対価を求める。大学合格という目標に向けて頑張る。毎晩深夜まで勉強していて、“風邪ひかないように”などと親から声をかけられるのは嬉しいが、「偏差値、どうなっているの?」など踏み込まれると、“うるさいなぁ”となる。大学受験に向けた勉強している間は何も言われたくない。大学合格が「作為」の結果であり、それがすべて。途中・プロセスはどうでもいい。
だから大学受験に失敗したら、這い上がれないくらい落ち込む。
みんな、器用で頭の回転が速くなった。パッと器用なことを考えて、パッとして、パッと評価されないと、“なんだよ”となる。時間をかけてじっくりやることはウケない、我慢できない。すぐに認められて、すぐに目立ちたい、すぐにマスターしたい、すぐにすごいといわれたい。やることなすこと、すべて作為的。こうして日本は「作為社会」になっていった。
そして“自意識が膨張”していく。
自意識が膨張すると、社会と相対化できなくなる。利己的、自己中心という考え方ではなく、社会は社会、私は私という考え方となる。
SMAPの歌「世界にひとつだけの花」が時代をあらわす。
No1にならなくてもいい、もともと特別なOnly One。
「世界にひとつだけの花」として、だれかに選んでもらうため、どんどん豪華にしていくが、それがだれかに選ばれる保証はない。「世界にひとつだけの花」と言っても、選択社会。2つあれば、どちらかが選ばれるのが経済・社会の原則。選ばれる「世界でひとつだけの花」もあるが、選ばれない「世界でひとつだけの花」がある。No1になれなくても、せめてOnly
Oneになりたい。 Only Oneになる“可能性はあるけど、実力はない”。じゃ、なにが足りないかというと、努力。
だれかが“若くして有名になった”という話を耳にすると、“わたしもそうなれるはずだ”と思うが、そうなる”努力”が抜けている。しかし自分が有名になれなかったら、“どうしてなれない?”となる。そうなれないのは努力が足りないからなのに、あの人は親の七光りだから、だれかのお気に入りだから、選ばれたのだ、私は気に入られていないから ― となる。
努力してもそうなれない人を見ると、
“やっぱりそうでしょ。だからそんな生き方はしない”となる。これこそ、「自意識の膨張」がなせるわざ。こうして努力しなくなる。その大学に入ったら、あそこの会社に入ったら、社会に約束された「最終製品」にしてもらえる、約束された人生が待っていると信じ込もうとしたから、「努力」しなくなった。所作から作為になった社会。所作の意味を問い直す時代ではないか。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 2月26日掲載分〕