病気にかかることを「患(わずら)い」という。患者・患痛・罹患の「患」は煩(わずら)いである。病気とは健康な体に、煩いがまとわりつくこと。煩いは自らの意思で振りはらうもの。一方、英語では患者のことをPatientと書き、欧米では病に耐え忍ぶという意味である。日本は病気になって耐えてじっと待つのではなく、自らの意思で振り払うとしてきた(COMEMO「日本人最大の関係性「ウチとソト」
― スリッパ物語)
200年前の1822年に、大坂でコレラが流行した際、船場の道修町の薬種仲間が、疫病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」という丸薬と張子の虎「神虎」のお守りをつくって、神農さんとよばれる「少彦名神社」で祈祷いただき、罹患者に施したところ、効能があったという。日本は病に対して、知恵を駆使してみんなで戦った歴史がある。現代も毎年11月22日、23日の神農祭には、全国の製薬関係者や地元の人が少彦名神社のある道修町に集まる。今、少彦名神社では「コロナウィルス退散」祈願がされている。 |
残念ながら、入学式も入社式もいつものようにできない。歓送迎会もできない。定年退職者も人事異動者の職場のみんなの前での挨拶がしにくい。年度事業方針の伝達もできない。メッセージ原稿はメールで、ネットで。在宅勤務にWEB会議に在宅ネット授業に企業研修はEラーニング。リアルを減らしてネットワークにシフト。前例にないことばかり、今まで経験したことがないことばかり。阪神淡路大震災のときも東日本大震災のときでも、ここまでではなかった。戦後75年で最大。第2次世界大戦以来の状況だという認識があるのかないのか。
コロナのあとは、コロナのまえではない。 |
日本には、“イノベーション”についての妄想がある。
そもそもイノベーションが意味しているのは「チェンジ」ではなく、「これまでにない新しいものにする」ことであり、“技術”にこだわったものではない。「the
use of new idea or
method」(新しいアイディアまたは方式・仕様)が世界の「イノベーション」のとらえ方であるのに対して、日本は“旧式に対して、何かを高度化した新しい変化”というイメージ・想いを「イノベーション」という言葉に託して、イノベーション=価値ある変革」とみなした。そのため「イノベーション」という言葉が日本に入ってきたとき、電機産業が国の基幹産業だったことからも、「イノベーション=技術革新」と訳すことになった。ここから、日本の技術至上主義が始まった。
前提条件がちがってしまっている。
社会構造がリセットしているのだ。そのことに今まで気がつかなかったり、気がつかないふりをしていた。“答えのない”時代になったといったり、“問題を考える”時代になったという人も多いが、この発言が出ること自体が、社会が「リセット」時代に入っていることを示している。そのことを日経新聞のタイムラインに、新人とシニアの行動様式の違いが的確に描写されている。重要なのは、なぜ違うのかだ。若者とシニアの「仕事・生活についての考え方・価値観」が大きく変わったため、行動を変えている
( 4月1日 日経新聞「新人とシニア・給与差縮む/キミたちはどう働くか」 )
真のリセットとは、この連動図の中核である「考え方・価値観」が変わったということである。「考え方・価値観」の変化が「制度・ルール」を変えることによって「行動様式」を変え、それを磨き進化し繰り返していく「仕組み」を変え、それらが連動しながら、「こうありたい・達成したい姿」を導いて実現していく。しかし、たとえば「仕事・社会に対する考え方」を変えずに「テレワーク」を導入してもなかなかうまくいかないのだ。このように「考え方・価値観」を変えずに、「制度・ルール」や「仕組み」を変えても、機能しない。さらに世代間による「考え方・価値観」のちがいは、“意味わからん訳わからん”となり、社会は「機能不全」に向かっていく。
市場・顧客が見えていないというのは、こういうことである。
「考え方・価値観」という本質=前提条件が変わっているのに、技術論や方法論ばかり語る人が多い。働くとはなにか、会社とはなにか、親子とはなにか、家族とはなにかという本質をつかまず、ライフスタイル・ビジネススタイル・ソーシャルスタイルをどうありたいのかというイメージを想像できないのに、「IoT・AIで、イノベーションをする」では、社会に想いは伝わらない。
なぜ答えが導けなくなっているのか。
類推(アナロジー)が機能していないのだ。独創的なモノとかコトとかサービスを新たに考えようというが、たいていはちがう分野で、日本のどこかでだれかが、世界のだれかがそれを見つけたり実行している。それを知らないだけなのだ。“答えがない”時代ではない。答えにつながる「糸口」が見つけられてないのである。
ネットで検索するということだけではなく、歴史・過去に学び、キーマンを具体的に訪ねて話を聴いて学び、新聞記事を“自分事”として考えながら丹念に読んで学び、関係者でワイワイガヤガヤ議論して、プロトタイプをつくって、試行錯誤して、失敗したり成功したりするプロセスのなかから、「類推」回路をつないで、「答え」を導いたり、「すごいもの」をつくりだす地道な活動が今こそ必要である。
世界中はコロナと戦いながら、「コロナのあと」を考えている。コロナのあとは、コロナの前ではない。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 4月2日掲載分〕