昔から裁縫が好きな86歳の母は1か月前からマスクをつくり、家族や近所の人に配っている。人になにか役に立つことをしたいと、夜遅くまでマスクをせっせとつくっている。
中国の友人が、「東京都の小池知事のマスクが可愛いって、中国で話題になっているよ」と連絡してくれた。小池知事だけではない、コロナウイルス感染症対策の全国知事会WEB会議でのマルチ画面に映る沖縄県の玉城知事や岩手県の達増知事など地域色あふれる「知事マスク」がSNSなどで話題になっている。この知事マスクの動きに、各地域に承継される記憶にもとづく文化の豊かさとコロナ後の地域の方向性・可能性を感じる
[次々回、コロナ禍社会キーワード③「集中・分散化の二項対立の崩壊」で詳述]
この知事マスクをはじめコロナ感染拡大防止プロセスのなか、短期間に進化している日本のマスクに、日本文化のカタチが発露していることを感じる。当初、マスク不足に伴い薬局やスーパーに行列ができたあと、マスクメーカー以外の企業がマスクをつくりだし、そのあと自分でつくろうという動きがおこり、手づくりマスクが一気に広がっている。白いマスク一色から黒にピンクにブルーのマスクと色々、白地一色からチェックに花柄に宮城県の村井知事の「むすび丸」のようなイラストマスクまで多彩・多様なデザインのマスクが生まれている。マスクという機能は担保しつつ、精神性をこめて、創意工夫によって多様化させて、価値あるモノ・コトをつくりだすという日本のものづくりの本質が発揮されている。今回の日本のマスクの進化に、日本的なイノベーションの本質をみる
[次々々回、コロナ禍社会キーワード④「日本化」で詳述]
そもそもマスクはなんなのか。
コロナ感染が世界的に広がった今年の1月・2月では、「マスクには意味がない」との欧米の声が多く、マスクをしない欧米の都市の人々の姿が報道されていた。WHOが当初、マスク使用方法のアドバイスとして、マスクは「咳やくしゃみをするなど症状のある患者と、新型ウイルスの感染した疑いのある人をケアする人が着用するもの」といっていたように、欧米ではマスクをしている人は、病人・医療従事者とみなされていた。
マスク(Mask)の語源はラテン語の「仮面・悪夢・幽霊」であり、イタリア語のMascheraは「覆う」であり、まつげを濃く長く見せる化粧道具のマスカラと同根、英語のMaskは「覆面・仮面、隠す・見せかけ・ごまかす」などを意味する。この語源を持つ欧米文化では、口と鼻を隠すマスクを着用するというスタイルは精神的に抵抗感があるものだった。それが、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、欧米の都市にマスクをする人々が並ぶ風景に一変した。
一方、日本のみならず中国・台湾・韓国・タイなど東アジア文化圏では、マスクに抵抗感がない。しかし私たちが着用しているマスクの歴史はけっして古くなく、100年の歴史にすぎない。マスクができる前の時代は、どうしていたのだろうか。江戸時代の疫病に関する絵を調べてみたが、それらしい姿がなかった。当時の死に直結する伝染病への日本人の疫病観では、マスク的のものは重視されなかったのだろうか。マスク的なものが見当たったのは、韓国のドラマ「ホジュン・伝説の心医」での400年前の伝染病治療風景や、日本のドラマ「仁 ― JIN」での江戸後期のコロリ治療風景で、口鼻を含めた顔半分を布切れで巻いている医療関係者の姿が表現されていた。
マスクをするスタイルがはじまったのは、いつからだろうか。
100年前に大流行したスペイン風邪感染拡大に対して、アメリカ・サンフランシスコが外出時でのマスク着用の義務づけとしたことなどを参考にして日本がマスク着用様式を推奨してから、日本でのマスク着用が広がったという。そのときの内務省衛生局の「マスクをかけぬ命知らず」という啓発ポスターに出てくるマスクは今のような白ではなく黒マスクで、マスクは自らがウイルスに感染しないためのものだった。世界的伝染病であるスペイン風邪への緊急対策にあたってマスクの供給が不十分だったため、当時のマスクは工場用の粉塵除けマスクで代替したり高価で高級な黒朱子マスク中心であったので、内務省のポスターは黒マスクだったのではないだろうか。
現在主流の「白いガーゼのマスク」が広がるのは、80年前。医師や看護師の制服が清潔感・安心感・信頼感をイメージしやすい「白衣」に世界的になったのが100年前だったので、マスクが白になったのはそれを受けてのことだろうか。その後、白いマスクは花粉症やPM2.5対策用としても使われるなど用途が拡充するとともに、機能的に進化していくなか、今回のコロナ禍に突入する。
マスクは、なんのためにするのか。
スペイン風邪での啓発では自らが感染しないためのマスク着用だったが、その後、風邪気味だったら他人にうつさないようにするためにマスクをしようとなった。それが今回のコロナで、<もしかしたら自分も保菌者かもしれない、そうだったら自分が他人にうつすかもしれない、まわりに迷惑をかけてはいけない>というように、他人への配慮のためマスクをしている人が増えている。それが、日本人のマスクに込めた「精神性」であり、コロナ禍のなかでマスク着用が世界的に広がっている本質ではないだろうか。
コロナ禍の当初、マスクをしていないと、変な目で見られた。今では、ほとんどの人がマスクをしている。マスクをすることに慣れていくと、マスクを外していいよといわれても、1年後2年後でも、公共の場ではマスクをしているかもしれない。家の外にはコロナのウイルスがいるかもしれないと思ったら、マスクをする。さらに、日本人は綺麗好きだから、時間をかけて手洗いをする。公衆トイレや駅、公園などのトイレなどで石鹸設備がついていて、石鹸で手を洗っている日本人の姿に外国人は驚くが、日本人はそれくらい公衆衛生意識が高い。
今回、国が提示した「新しい生活様式」の背景は、「コロナウィルスはどこにでもいる」ということではないだろうか。だから自分のことは自分で気をつけようということ。このスタイルがこれからの生活のルールだと思えば、そうする。そういう時間が長くなればなるほど、それに慣れて元の姿に違和感がでて、コロナのいる世界と共生するという「普通」もあるかもしれないと思うようになる。
コロナ禍後社会は、「信頼」がキーワードとなる。
自分のことは自分でする、“自分の生活は自分で制御している”というプロトコールにもとづいて行動することになる。なにかを触ったら手を洗う、こういうものは触らないなど、自分でルールを決めて動く。しかし“自分以外の他人がそうしているのかどうか”、わからない。本来、「他人は自分と同じだろう」という共通性を前提とするが、その前提がコロナで崩れた。“自分以外の他人がすることが信用できないかもしれない”という人が増え、本当はとても注意している他人であっても、その他人のしていることが信用できなくなる。
緊急事態宣言が終わって、会社とか学校とか商業施設が再開しても、これまでの「信頼」はなかなか回復しない。たとえば子どもを学校に行かせたら、子どもが家の外でコロナウィルスをもらって帰ってくるかもしれないと、親は気になる。他人と共用するものは使ってはいけないと、自分が飲む水筒をもたせる。除菌ウェットティッシュをもたせてなにかを持ったり触るときは、これで必ず拭きなさいと教える。子どもをそう躾けて、自己で自己を防衛させていく。
「一度失われた信頼の回復は難しい」というビジネスの教えと同じである。“これで大丈夫”と言われても、なかなか元には戻らない。残念ながら、自分以外の他人がしている「行動」が信頼できないということがつづく。
「マスクをして、外から帰ったら、手を洗う」というスタイルは定着していく。
自分以外の他人がしていることが信頼できないが、相手もこちらがしていることが信頼できない。だからお互い何らかの信頼のシグナルを送る必要があり、信頼に準ずる「準信頼のプロトコール」として、マスクをしている自分の姿を示す。マスクをしていることが、相手に対する「準信頼のプロトコール」となる。
飲食店や商店では、店の入口の消毒用アルコールと店員のマスクや衛生を意識した設備や行動が「信頼の準プロトコール」となり、それで安心を伝える。しかしいくら店員がフル武装し可能な限り衛生に留意した行動をしても、この食材や商品を運んでいる会社は大丈夫なのかなどと気になる。ありとあらゆるモノに、“菌がついていないといえるのか”という意識になり、“これはこういう対策をしています”とお店が説明することが、これからのビジネスにおける「信頼の準プロトコール」として求められる。
これまでも動きがあったが、自分の「ナイフ・フォーク・箸」を飲食店に持参するお客さまや、店が用意したナイフ・フォーク・箸を意識的に拭くお客さまが増えるだろう。店から供給されるモノが信頼できないので、お客さま自身がそれを「無菌化」「無害化」しようとする動きが増える。とんでもないことだが、そんな時代になる。そのように、サービスのカタチが変わる。それは、日本だけの問題ではない、世界中でそのような動きになる。
集中すること、集団であることのリスクが高まった。
これまで作りあげてきた集中スタイや仕組みが通用しなくなる。コンビニやスーパーでのキャッシュレス化や無人化の流れは時代の必然であり、オフィスではWEB会議だけでなく、多数の人が使うオフィス設備、たとえばドアはIDカードで開けたり、共用のコピー機などの事務器を手でさわらなくてすむようにする。テレワークだけでなく、空調やフロアなどのオフィス環境の衛生管理レベルを格段に高めていくことが求められていく。
“自分以外の他人がしていることが信用できない”という前提のもと、「信頼」を高めるために、家族・組織・会社・学校という場のどこに、どんな問題があるのかを掴み、解決していくビジネスが急速に動きつつある。次回は、コロナ禍社会キーワード②「離れる」を考えていきたい。
(了)
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)
〔日経新聞社COMEMO 5月7日掲載分〕